六回表:沢村栄治への誤解・曲解・崇拝に反論する

2005.6.5更新

誤解1:沢村のフォームは「真っ向上段」ではない。

 この誤解は米国のドキュメンタリー『Baseball』の中で沢村栄治についてナレーションがある時に映る映像を沢村と思い込んでのものである。この映像では4シーンに3人の投手が登場するが、第1シーン1人目(画像1左上)は左腕投手なので絶対沢村ではない。メンバーの中で左腕は浜崎真二と朝倉長の二人だが、浜崎は158cmの低身長なので、映像は朝倉だろう。第23シーン(画像1右上・左下)は同一の投手で横手気味のスリークォーターの右投手だが、背番号は18。沢村の日米戦当時の背番号は8番だからこれも違う。画像は伊達正男だろう。ここまでの2人は全日本チームのユニフォームを着ているが、3人目(画像1右下)は学生野球の映像で、しかも下手投げ。捕手も審判もマスクをしていないから、試合前のウォームアップの映像である。しかも沢村にしては非常に華奢な体つきである(これが沢村なら小学生か中等学校初級のころだろう)。17歳当時の沢村の体型と比較してほしい。万一この映像が沢村だったとしても、この映像から日米戦のときの沢村のフォームや球速を推測するのは無理である。『Baseball』のこれらの映像は、ナレーションとは別に、当時の日本野球のレベルを推測させるために紹介されたものと考えたほうがいい。追記:2015年に沢村の試合中の全力投球映像が遂に発見された。やはり「真っ向上段」から投げおろすフォームであることが証明された。

 画像1(『Baseball』)

 

誤解2:沢村のフォームで150km/hは無理。崇拝1:沢村のフォームなら160km/hOK

 沢村の全力投球の映像は未だ発見されていない。元々ないのかもしれない。発見されてもその映像から球速を推測するのは誤差を考えれば無意味に近い。当時の撮影機器はゼンマイ仕掛けであることをご存知だろうか。ましてやウォームアップから全力投球の球速を推測するなど不可能である。「昔の投手だから遅いに決まっている」という先入観があれば一番遅い数値を採用して「120km/h」となるだろうし、「今の最速投手より速いだろう」という先入観があれば一番速い数値を採用して「160km/h」となるだろう。現在の投手のウォームアップをゼンマイ仕掛けのカメラで撮影して全力投球の球速を推測する、と仮定してみたらこのテの議論がいかに不毛か分かると思うのだが。追記:2015年に沢村の試合中の全力投球映像が遂に発見された。これについての筆者の意見は「一回裏 沢村栄治の球速は再び」2015.8.22の記事で表明してあります。

 

曲解1:沢村の球を鉄砲玉と比べるのは笑いでしかない。

 スピードガンが出てプロの速球派の球速が分かったとき、それが新幹線より大幅に遅いのにがっかりしたのは筆者だけではないはず(玉木正之氏も『プロ野球大辞典』で書いている)。沢村の球は140km/h台だったとしても当時の特急列車よりずっと速いのだ。南満州鉄道株式会社(満鉄)が当時の技術の粋を集めて作った特急「アジア号」の最高速が110km/h(一説には130km/h)。これは広軌での話だから狭軌である国内の特急は100km/hそこそこ。国産自動車なんてまだ最高速が70km/hくらい。飛行機は300km/hを超えていたが、離着陸速度は100km/h前後。低空を飛ぶ燕でも100km/h以下。つまり、沢村の速球は「史上最速」どころか、人間が見ることのできる移動物体としては「地上最速」だった。よく沢村の球が鉄砲玉と比較されたのを嘲笑う意見を聞くが、当時の人間としてはもう「見えない」鉄砲玉くらいしか比べるものがなかったのだ。画像はアジア号。

asia1

 

誤解3:昔の投手なんて遅いに決まっている。崇拝2:昔の投手の方が速かった。

スポーツのあらゆる記録を考えれば、昔の選手のほうが客観的な数字が上というものは存在しない。したがって、大正生まれの沢村の球速が史上最速ということは考えにくい。だが、昔よりも飛躍的に記録が向上したスポーツ(棒高跳びなど)もあれば、あまり記録が伸びていないスポーツ(100m走など)もある。投擲系はどちらかといえば記録が伸びたものが多い。下表に古い選手と現代の選手の100m走と投擲に関する比較を筆者の知っている限りで挙げる。これを見て気付くのは、戦前より飛躍的に記録が伸びている投擲系競技でも、20年以上前の記録がいまだに日本記録として君臨しているものもあるということだ。この手の競技には技術の進歩以上に素質の関与する割合が大きいという証拠ではないだろうか。中でもボール投げはもっとも単純な投擲系である。遠投記録はスポーツとして特化しなかったという要素があるため、戦前と戦後であまり記録が変わらない。潜在能力を比較しやすいものの一つである。明治時代の豪腕守山恒太郎(第一高等中学校)ですら既にクリケットボール100m遠投の記録を持っている(『野球殿堂物語』)。もう一つ記録が伸びにくい要素として、「こんな硬いもの打者に当てて殺しちゃいけない」という心理もあるだろう。コントロールを全く無視してホームに極限の全力投球を投げ込む投手は昔も今もいない。これは投手の本能といってよい。もちろん筋トレやスポーツ理論の発達により、沢村なみの速い球を投げられる投手は増えている。しかし、沢村の球は「打ちにくさ」を別にすれば、現在の投手としてもやはり速い方に入るだろう。画像2は遠投120mの記録を持つ伊達正男(市岡中-早稲田大-大阪倶楽部)。見えにくくてスミマセン。だが、画像1の背番号18の投手(沢村と誤認されている投手)とフォームが極似しているのに注目。

100m

1932年:吉岡隆嘉:10.3

1998年:伊藤浩司:10.00

砲丸投げ

1934年:高田静雄:14.13m

1998年:野口安忠:18.53m

円盤投げ

1935年:菊本耕作:44.76m

1979年:川ア清貴:60.22m

ハンマー投げ

1934年:阿部功:49.10m

2001年:室伏広治:83.47m

やり投げ

1934年:長尾三郎:68.59m

1989年:溝口和洋:87.60m

クリケットボール投げ

明治時代:守山恒太郎:100m

記録なし

手榴弾投げ

1941年:青田昇:81.50m

記録なし

1940年:沢村栄治:78m

記録なし

野球ボール遠投

1930年代:景浦将:144m(一説には114m

2001年:イチロー:130m

1948年:金田正一:約140m

1990年代:愛甲猛:130m

1940年代:国久松一:127m

1970年:江川卓110mただし中学1年生の時の記録

1930年代:伊達正男:120m

1940年代:青田昇:120m

1954年:土橋正幸:120m

 

画像2:伊達正男の投球フォーム(NHK『古関裕而さんを偲ぶ』)

 

曲解2:沢村の顕彰は読売の販売戦略だ。

 沢村に興味を持つ人間が増えるほど、読売が沢村にいかにひどい仕打ちをしたか知っている人間が増えるということだ。肩を痛めて投げられなくなると、弊履のように捨てられ、しかも家族への仕送りの約束さえ反故にされていた(中日新聞運動部『時代の疾走者たち』)ことは当時のプロ野球人ならみんな噂で知っていたと思う。小遣い銭まで貰っていたホークスを蹴って入団し、浪人時代にも決して他球団の監督就任の誘いに乗らなかった長嶋茂雄や、ドラフト制度に「敢然と立ち向かって」入団した江川卓のほうが、販売戦略にははるかに適当だろう。500勝投手サイ・ヤングの賞に先駆けて100勝にも満たない沢村の賞が設けられたのは、「沢村を忘れさせてはならない」と思う人々の熱意の結晶と考えるしかない。みんなが憧れた「足上げ」。藤村富美男をはじめ、当時、中等野球の投手たちの多くが沢村のフォームを真似て調子を崩したという。誰にも真似できないフォームで、誰よりも速い球を投げた投手であることを、当時の投手たちはよく知っていた。だから、沢村賞が制定されたとき、「喜んだのは私だけではない。投手たちみんなですよ。英雄の名がグラウンドに帰って来たと(別所毅彦:元ホークス‐ジャイアンツ)。」画像は多田文久三の足上げ。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

別所昭02

 

誤解4:沢村の三振奪取率は低い。

 よく、「沢村がそんなにすごい球をなげていたのなら、なんで今の投手より三振奪取率が低いのだ」という意見を聞く。だが、以下のような背景を考えれば沢村全盛期の三振奪取率がいかに高いか納得できるはずだ。まず、打法の違いである。昔は学生野球のメッカである甲子園・神宮ともに絶望的に広かった(画像:両翼110m,左中間右中間128m,中堅119m)ため、上体をかぶせて球を前でさばき、ゴロを打つ打法が主流だった。手元に引きつけてフルスイングする今の打法よりずっと三振がとりにくい。次は打者の考え方の違い。「フライはアウトになるまでに1プレー。ゴロは2プレー。その間にエラーが起こるかもしれない。だからゴロを打て。」という思潮。この発想でいくと、野手が1プレーも起こさずにアウトになる三振は恥ずべきこと。今のように三振王に「ブンブン丸」なんてかわいいニックネームのつく時代ではないのだ。第三は速球主体の配球だったこと。奪三振率の上位に位置しているのはフォークボールがポピュラーになった現代の投手がほとんどである。第四は、投手が酷使されていたこと。酷使されている投手がここという場面以外はチェンジオブペースで切り抜けようと考えるのは当然である。第五は当時はすべてデーゲームだったこと。ナイトゲームとデーゲームでは文句なしにデーゲームの方がボールが見やすい。このような背景の中で一試合8個近い三振を取っていた沢村の奪取率は低いどころかすごいの一言である。

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画像:昭和9年当時の甲子園球場のスケール

 

崇拝3:沢村は戦争さえなければ400勝していた。

 戦前の投手の実績を調べていくと、ほとんどの投手が35年以内に潰れている。岸本正治(第一神港商)、楠本保(明石中)、松井栄造(岐阜商)など、枚挙に暇がない。沢村もタイガースとの初の王座決定戦では馬肉で肩を冷やしながらの投球。それ以前に米国遠征から帰って来て「やる気をなくしていた」といわれていたときも実態はおそらく肩を壊していたのだろう。よく調べてみると、沢村は年度によって、または同じ年度内でも季節によって、成績に現在の工藤公康(名古屋電気高‐ライオンズ‐ジャイアンツ)を思わせる波がある。戦争が沢村の肩と生命に駄目押しを与えたのは事実だ。その後の凡庸な投手が可能だった100勝すらできなかったのだから。だが、戦争がなくても、興行のために毎日のように駆り出される登板条件の中では、いずれにせよ投手生命は長くなかっただろう。画像は松井栄造。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

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誤解5:沢村みたいに小さい投手が150km/hなんてありえない。

 沢村の身長・体重は徴兵検査の正式なもので身長574分、体重18100匁。メートル法に直すと身長約174cm、体重71kgである。この数字にはサバ読みや水増しは一切ない。これを沢村より後の時代に豪速球伝説を作った投手たちの身長・体重と比べてみよう。別所毅彦(元ホークス‐ジャイアンツ)182cm85kg。杉下茂(元ドラゴンズ)185cm75kg。金田正一(元スワローズ‐ジャイアンツ)184cm85kg。稲尾和久(元ライオンズ)180cm80kg。藤田元司(元ジャイアンツ)173cm64kg。米田哲也(元ブレーブス‐タイガース)180cm87kg。村山実(元タイガース)175cm83kg。土橋正幸(元フライヤーズ)177cm68kg。尾崎行雄(元フライヤーズ)176cm83kg。江夏豊(元タイガース‐ホークス‐カープ‐ファイターズ)179cm87kg。堀内恒夫(元ジャイアンツ)176cm76kg。鈴木啓示(元バファローズ)181cm86kg。平松政次(元ホエールズ)176cm74kg。江川卓(元タイガース‐ジャイアンツ)183cm90kg。村田兆次(元オリオンズ)181cm78kg。山口高志(元ブレーブス)170cm。野茂英雄(成城工‐新日鉄堺‐バファローズ‐ドジャース‐略‐ドジャース)185cm89kg。佐々木主浩(東北高‐東北福祉大‐ベイスターズ‐マリナーズ)180cm95kg。松坂大輔(横浜高‐ライオンズ)180cm85kg。これらは日本プロ野球機構の公称で、5cmくらいの水増しは当たり前といわれている。こうしてみると沢村が極端に小さいわけではないことが分かるだろう。むしろ気になるのは体重なのだ。後の豪速球投手たちと比べるとちょっと軽い。画像(左端)は滝川中時代の別所昭。当時の182cmがどのような印象だったかがわかる。

別所昭02

 

崇拝4:沢村はすらりとした長身だった。

沢村はすらりとした長身だった、というのはフォームから見た素人目だろう。当時の観客から見ればプロの選手は皆大男に見えたのではないだろうか。沢村は確かに当時の日本人としては足が長いが、投手としては決して長身というほどではない。これも同時代の投手たち、特に一定の活躍を見せた投手たちと比べてみればわかる。スタルヒン190cm、中尾輝三176cm、藤本英雄170cm(以上ジャイアンツ)、若林忠志175cm、景浦将173cm、西村幸生174cm、御園生崇男170cm(以下タイガース)、野口二郎(セネタース)175cm、別所昭182cm、神田武夫不明、政野岩雄170cm、清水秀雄174cm(以上ホークス)、真田重蔵173cm、林安夫176cm(以上朝日)、亀田忠174cm、中河美芳176cm(以上イーグルス)、菊矢吉男(ライオン)170cm、森弘太郎172cm、笠松実170cm(以上ブレーブス)、松尾幸造171cm、石丸進一170cm(以上名古屋)、中山正嘉170cm、古谷倉之助不明(以上金鯱)。以上は戦前の投手で最多勝利5傑に入ったことのある投手である。意外な身長の高さに驚かれるだろう。画像は昭和16年当時のタイガース投手団。左から2番目若林忠志の175cmが決して長身とはいえないことがわかるはずである。

昭和16年阪神投手団

 

誤解6:沢村の草薙球場での快投はフロックだ。

確かに沢村が大量失点していないのは草薙球場での第10戦だけである。だが、それだけでこの試合がフロックであったとはいえない。ヤンキースの4番ゲーリッグは、日本を離れるにあたって、次のような興味深いアドバイスを日本チームに贈っている。「バントに対する守備の巧拙は味方を危機から救うか、窮地に陥れるか、一大分岐点をなす重大なものである。一塁方面に来たバントに対しては、一塁手は最も迅速に塁を飛び出し、走者を二塁に刺さなければならない。もし、二塁走者を封殺できないと見たとき、初めて打者走者を刺さなければならない。」つまりこの頃、全日本の「精鋭」たちはバントシフトを知らなかったのである。ヒットエンドランや盗塁に対する体勢も似たり寄ったりだったろう。これでは完璧に押さえ込まない限り「野球をよく知っている」メジャー相手ではいくらでも点が入るだろう。実際神宮球場での第4戦で沢村は12安打で10失点。12安打というと相手の拙攻に助けられれば完封することすらある安打数である。全米がいかに効率よく得点したか、というよりも、塁に出したらもうおしまいというバックだったことがわかる。当時の名手水原茂(高松商‐慶応大‐ジャイアンツ)が嘆いている。「ミットの真ん中に入れているのにファンブルするのです…。」こんな圧倒的な力量差の中で、ほとんどの試合を5点程度に抑えて試合を作った伊達正男(市岡中‐早稲田大‐大阪倶楽部)はやはり当時「日本一の大投手」だったし、1試合だけとはいえ9三振、5安打に抑え込んだ沢村はこの後「不滅の大投手」になっていくだけの球威を持った投手だったのである。画像は当時の「名手」水原茂。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

MIZUHARA画像:水原茂の守備(『野球の妙技』)

 

誤解7:沢村が草薙球場で好投したのは太陽がまぶしかったからだ。

 これはベーブ・ルースが試合後に言ったといわれていることだが、大リーガーたるものこんな言い訳がましい台詞はやめてほしいものだ。太陽のせいで打ちにくいのなら、そのハンディは全日本打撃陣も同じこと、力量に勝る大リーガーホワイトヒルには完全試合と20奪三振をお願いしたいものだ。全米が沢村を打ちあぐんだのは、「まぶしかったから」ではなく、逆光で沢村の表情が見えなかったからだろう。沢村にはドロップを投げるときに口元を歪める癖があったそうだ。浜崎真二(第一神港商‐慶応大‐大連満鉄倶楽部)が言っているが、全米軍の打者は全日本の投手の球種を投げる前から見破っていたらしい。今では癖で球種を見破るなど中学生でもやっていることだが、当時の日本は一旦グラブとボールを離してからぐるぐる腕を回すワインドアップ。どんなに球威があっても球種が事前に分かっているなら打たれるだろう。当時はそれくらい彼我の力量差があったということだ。画像は浜崎真二。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

浜崎真二01

 

曲解3:沢村がメジャーに誘われたなどウソ八百だ。

 ゲーリッグやディマジオでさえプロ生活の最初はマイナーリーグからスタートしている。これは本当にごく一部の例外を除いて当時は当たり前のこと。伊達正男、田部武男(広陵中‐明治大‐ジャイアンツ)、沢村に米国でやってみないかと誘いがあったのはいろいろな人の証言から明らか。それは「鍛えればモノになる」という発想だったろう。というよりも、メジャーで即戦力になる、という発想はどんな逸材に対しても米国ではありえなかった。それだけ当時のメジャーリーガーというのはアマチュアと差があったのだ。しかも当時は有色人種に対する差別思想が厳然としてあった時代。こうした時代に全米軍監督コニー・マックが「サワムラを米国に送ってみないか」と鈴木惣太郎に申し込んだという逸話は、いかに沢村の素質が目を惹いたかという証明である。これをいきなりメジャーに誘われたという神話やホラとして受け取り、「社交辞令だ」と否定する意見には単なる事実誤認以上のものがある。画像は田部武男。

TABE

 

崇拝5:沢村は読売が強引なことをしなければ慶応に進学していた。

 どうだろうか。「世紀の剛球投手」と呼ばれ、中学時代に対戦した相手に口を揃えて「沢村より速かった」といわれた楠本保(明石中)ですら慶応大受験に失敗して一浪している。江川卓(作新学院高)が慶応大受験に失敗したように、学力に関して意外に融通の利かない学校なのだ。目に見えない「階級の壁」も。うどん屋の息子で高等小学校中退で京商でも野球漬けの沢村が慶応に受かっただろうか。筆者は早稲田大に進学したのではないかと思っている。画像は楠本保。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

楠本保02

 

崇拝6:沢村はコントロールのいい投手だった。

 沢村の解雇を決定付けた最後の登板で四球連発したのは有名だが、沢村にはときどき四球を連発して止まらなくなることがあったようだ。現在確認できる記録では昭和81933)年春の選抜1回戦で、四死球10個を出している。その後も第2回米国遠征壮行試合で金鯱軍相手に四球を連発して試合を台無しにしたり、伝統のT-G戦第1戦でも四球を連発して試合を壊したりしている。足を高く上げて真っ向から投げ込む沢村のフォームは、下半身の鍛錬を怠ったりフォームのバランスが崩れたりすると、四死球連発の危険がつきまとったようである。画像は昭和8年春甲子園出場の際の沢村。

SWAKYO

 

曲解4:沢村が現代のプロ野球に現れたらメッタ打ちだ。

 過去だろうが未来だろうが、いきなり自分の生きたのと違う時代に現れて活躍できる選手などいない。沢村が現代に現れようが、野茂や松坂が戦前に現れようが、結果は同じ、「メッタ打ち」である。野球の技術はその選手が生きた時代の環境の集大成なのだ。当時のミットとグラブを見ていただきたい(画像:当時の野球用品パンフレット)。この道具だと両手を揃えて掌の部分で正確に捕球しなければ間違いなくファンブルする。第一指に怪我をする。ポケットの部分で片手捕りできるようになったのは比較的最近、ミズノのワールドウィンシリーズが登場してからのことだ。現代のグラブでは掌で捕ろうとすると逆に土手に当ててしまってファンブルする。道具一つとってもこれくらい技術と密接な関係があるのだ。現代の選手たちがいきなり戦前の職業野球に放り込まれたら、誰か活躍できるだろうか。1週間もしないうちに全員指の骨折・捻挫で戦線離脱だろう。沢村の球種が速球とカーブしかないのにはその時代なりの背景があるのであって、いきなり現代に現れたら通用しないのは現代の選手たちがいきなり戦前では通用しないのと同じくらい当たり前なのだ。零戦を駆って闘ったエースを「現代では通用しない」などとは誰も言わない(政治的立場から非難する人間はいるかもしれないが)。そういえば、「宮本武蔵が現代にいたらピストルで撃たれて終わりだ」なんて、言ってた嫌なガキが小学校の頃いたなあ…。

MIT画像:昭和初期のミット画像:昭和初期のグラブ

 

曲解5:青田昇と千葉茂が日テレ番組で沢村の速球を「1××km/h」だと言ったのはジジイの妄想だ。崇拝7:青田と千葉の証言で沢村「1××km/h」が証明された。

 この話は日本テレビの番組で故青田昇氏(滝川中‐ジャイアンツ‐ブレーブス‐ジャイアンツ)と故千葉茂氏(松山商‐ジャイアンツ)がバッターボックスに入り、ピッチングマシーンのボールを見て沢村の球速に近いものを言う、というものらしい。筆者はこの番組を見ていない。だが、この話は「沢村の速球が速かった」という話がいかにウソっぱちかという証拠としてさまざまな人間によって語られている。

青田氏や千葉氏は沢村の全盛期にその球をバッターボックスで見ていない。したがって彼らにはバッターボックスで見たピッチングマシーンの球を沢村の球と比較する資格が無い。また、沢村の全盛期の球を実際にボックスで見た元選手が同じことをしたとしても、それは「バッターの体感として何km/hあったか」ということに過ぎず、沢村の球が客観的に史上最速であるという証拠にはならない。このことは最初にはっきりさせておきたい。

だが、この日テレ番組を口を極めてバカにしている人々も馬脚を現しているので、この点については少しキツイ言い方をしたい。最初にこの番組に関して筆者が信用しない、という立場を明らかにしたのもそのためである。

ネットで検索してみると、この番組で青田氏や千葉氏が「まあこれぐらいやろう」と言ったという球速が筆者によってまったくまちまちなのである。この番組は全国放送だからはっきり「1××km/h」と明示されたはずなのに、ひどい人になると168km/hでそう言ったことになっている。最低で158km/hか。これは要するにその人の主観で「そんなバカナー!沢村の球がそんなに速かったはずないじゃん!」と思われる数字に記憶を変容させている証拠である。これでは「ワシの球は170km/hあったデー」というのとどこが違うのか。客観性を大切にするのなら両氏が何km/hの球を沢村の球速に比定したのかくらい正確に調べてほしい。

もう一つ、このテの話には常に「ジジィ」「妄想」「ノスタルジア」「耄碌」といったエイジズム(年齢による差別思想)がまとわりついている。同時代信仰というのは常にあるのだからあまり自分の前の世代をバカにしないほうがいい。自分が「客観的事実」と信じていることが次の世代から見れば「妄想」なのだから。

画像は青田昇。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

青田昇01

 

誤解8:現代の投手がその気になれば沢村よりたくさん投げられる。崇拝8:沢村がその気になれば現代の速球投手より速い球(つまり160km)が投げられた。

 どちらも無理である。「野球が違う」としかいいようがない。「現代の投手が戦前に生れたら」「沢村が現代に生れたら」という質問の答えとしては正しいかもしれないが。

 投手に求められることは「打者に打たれない球を投げる」ということだが、「打たれない」要素にはいろいろある。これはすでに「名投手の条件」で述べたが、球速、制球力、変化球の切れ、配球、球の見えにくさ(身長やフォームによる)、度胸などであろう。

 この「打者に打たれない球を投げる」という要素にしてからが、沢村時代と現代では何に重点を置くかが相当異なっている。しかもこれらの要素は「こちら立てればこちらが立たず」といった面が大いにあるのだ。

 たとえば、球速と制球力を両立させている投手は少ない。同時代の投手たちよりも抜きん出た球速の投手でストライクゾーンの四隅にボール一つの制球力で出し入れできる投手は長い日本野球の歴史の中でも稀である。野球のレベルが上がった2005年現在でも、150km/h超の球速でコーナーワークも抜群という投手は皆無である。140km/h超クラスでもはっきり言って怪しい。130km/hクラスの投手たちが制球に自らの活路を見出しているのが現状だろう。

 沢村時代に関してはスピードガンの数字がないので「何km/h」とは敢えて言わないが、現在よりも要求水準が低く、速球派はストライクが入れば「コントロールがよい」と言われただろうし、制球力や変化球その他の要素で勝負する投手の球速は現代で言えば高校野球の技巧派くらいだろうか。

 そして、戦前の投手たちを現在の投手たちと比較して最も不利なのは、「球の見えにくさ」だろう。

 現代の投手たちはノーワインドアップもしくはしっかりと球の握りを隠してワインドアップし、腕をできるだけ身体の陰に隠れるような軌道で(和田毅:早稲田大−ホークスがよい例である)、なおかつ関節可動域が最大になるようにしならせて振る。

 これに対して戦前の投手たちは、動画を見た範囲では、球の握りが丸見えのワインドアップで、弧を描くように腕を引き上げ、いわゆるアーム式に振っている。現代の投手ではもう引退したが、西山一宇(高知高-NTT四国-ジャイアンツ)の腕の振り方を思い浮かべてもらえばよい。

 「球の見えにくさ」こそは日本野球の投手たちが追い求めてきた課題であり、たとえ戦前派の投手が150km/hの速球を投げていたとしても、それは現代の投手たちの150km/hの速球とは全く質が違う。

 では、現代の投手たちの投法がすべてにおいて勝っているのかといえば、決してそうではない。しつこいようだが、野球の技術はその選手が生きた時代の環境の集大成なのである。

 では、戦前の投手たちと現代の投手たちの置かれていた環境で決定的に違うのは何か。それは、戦前の投手たちには「エースとして大事な試合の全てを投げ抜く」という使命があった、という点である。

 戦争直後に活躍し準完全試合を2回記録した真田重蔵(海草中学−ロビンス−タイガース)は、中学で投手をすることが決まると、肘に板を固定され、肘を使った投げ方ができないようにされたという。さらに、「自己流(おそらく肘から引き上げる)」の投げ方をすると鉄拳制裁をくらったということである。つまり、意図的にアーム式に矯正されたわけだ。

 これはひとえに「投げ抜く」ためであった。沢村もまた、小学校・高等小学校・中学校・全日本・米国遠征・職業野球と「投げ抜いた」一人であった。

 現代の投手は戦前の投手に比べれば「速くて制球された見えにくい球」を投げることができるが、「投げ抜く」ことができない。それは高齢の評論家ののたまう「ひ弱さ」のせいでも根性の欠如でもなく、環境の変化に対応した技術の進歩のせいなのである。

 逆に、戦前の投手は「投げ抜く」ことはできても、決して現代の投手を超えるような速球は投げていなかった。たとえそれだけの潜在能力を持っていたとしても、技術的に投げられなかったのだ。

このことについて理論的なことはいずれ「3回表:沢村栄治を科学する」で詳しく述べようと思う。画像は真田重蔵の投球フォーム。動画を見たい方は動画日本野球殿堂にアップしてあります。

真田重蔵

 

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