八回裏:沢村栄治発言集
2009.5.17更新
昭和2年頃:日ごろの口癖
将来は店員になって家族を楽にするんや。
昭和7―9年(1932−34)某日:捕手山口千万石のサインに対して
オマエはオレと何年、バッテリーを組んでいるんだ。今のサインは何だ?オレがカーブやドロップで三振をとって喜ぶとでも思っているのか!?
昭和7―9年(1932−34)某日:京商にコーチに来た慶大監督腰本に対しての感想
何も教えてくれへん。たよりないこっちゃ。
昭和9年(1934)8月:大騒乱の中甲子園地区予選で優勝して
優勝旗をもらうときがたがた震えていたのや…。ほんまに嬉しいのと恐ろしいのとごっちゃや…。
昭和9年(1934)10月:父に対して
(大学進学でも全日本入りでも)どっちゃでもええよ…。
昭和9年(1934)10月:後輩への手紙
今度は、ベーブルースに放るんや。
昭和9年(1934)11月:全米軍監督コニー・マックの勧誘に対して
(米国に)行ってみたいが、怖いわ…
昭和年10年(1935)6月11日:パイレーツのスカウトに拉致されそうになって
わしほんまにびっくりしたわ…もうサインはやめや…日本へ帰れへんが。
昭和年10年(1935)6月18日:日布時事のインタビューに答えて
アメリカに来てまだ一度も本当に気持ちよく球が投げられません。観衆が少ないせいもあるでしょうが、米国の強打者も日本の打者もあまり投げるときには問題でありません。ただ一生懸命投げていれば、それでいいと思います。
昭和年10年(1935)渡米某日:新富卯三郎の鈍足を責めるチームメイトに
そない言いなさんな。新富さんはいつもあんたらが打てん時に、ボカッとホームランを打つやないか。良いバッターやぜ。
昭和年10年(1935)渡米某日:米本土からハワイへの船旅の後
身体がいうことをきかない。船旅がひどかった。私は船酔いの船乗りのようなものだ。
昭和年10年(1935)7月16日:米国での好投を称えられて
いいや、こいつ(中山捕手)がいたからですよ…。
昭和年10年(1935)7月17日:父に対して
アメリカはすごい国や…。
昭和年10年(1935)7月20日:伊勢新聞のインタビューに答えて
アメリカ遠征で一番感銘したことは、アメリカへ上陸するなり同胞の二世が涙の出るほど親切に、応援、力づけてくださったことです。成績がよかったのは同胞が力を限りに応援してくれた賜物だと今でも信じています。
昭和年10年(1935)7月21日:読売新聞のインタビューに答えて
特にナイト・ゲームには身体のコンディションさえよければ自信があります。第一ボールが新しくて非常に投げいいことと、打者が何だか恐怖心を抱いているように見えるので、スピードボールとカーブさえ決まれば大丈夫だと思います。
昭和10年(1935)某日:父から渡米の感想を聞かれて
黒人選手が一番こわかった…。
昭和10年(1935)某日:父から渡米の感想を聞かれて
何も覚えてへん…ただ脚をあげて投げると具合がええな。
昭和10年(1935)11月5日: ジャイアンツの監督三宅大輔に対して
おれ、本当は大学を出て、子どもたちに野球を教えたかったんです。
昭和10年(1935)某日:ジャイアンツの監督三宅大輔の辞任を知って
あの人がおらんのなら、もう野球なんかやりとうない。一緒に阪急に行きたい気分や。
昭和11年(1936)某日:ジャイアンツの監督藤本定義に対して
(コーナーワークを使えという指示に対して)必要ありません。ド真ん中に投げていれば打たれませんから。
昭和11年(1936)と推定:実家への手紙
(120円の月給のうち80円を実家に送って)この金で、なんとか弟たちを上級学校へあげてやってほしい。
昭和12年(1937)3月25日:実家への手紙
私は今野球を敵のように思っています…にくんでいます…若い自由な時期に三年もしばられて、またその上にいろいろの事が起こって面白くもありません…自由の日を早く求めたい…
昭和12年(1937)7月:『野球界』記者に対して
もし、ぼくをベスト・コンディションであらしめたら、カーブだのコーナーだのと頭におかずに、プレートのど真ん中に直球をストライクばかり投げて、それで打者が打てないように、そういうふうに投げ続けたい。
昭和12年(1937)3月:出征を前にしてチームメートに
優勝してくれ!是非優勝してくれ!
昭和12年(1937)9月:司令官の質問に対して
ハッ。投手は重い銃をかついだら肩を悪くすると思います。
昭和12年(1937)9月:司令官の質問に対して
(希望の兵科は)べつにありません。
昭和13年(1937):野球をやりたいという弟貞三に対して
大事な一生を野球に生きるのも一つの生き方やけど、オレは最高のものやとは決して思っていない。やっぱり人間は頭で勝負する生き方が一番いいんだ。オレが世間さまからこれだけいわれるまで、どんだけ苦労したか。こんな苦労はさせたくない。だから、お前は頭で勝負する職業を選べ。
昭和13年(1937):『野球界』に寄せた手記
曹長が「沢村、手りゅう弾一発かましてみい」と言う。無論立ってなんか投げられない。だが野球で鍛えた腕には、伏していても投げられる自信があった。死を覚悟した自分は、安全装置を取り、靴で発火させて投げた。すさまじい爆音が敵陣にあがった。手応えがあったなと思った。曹長が太い声で「手りゅう弾」と叫ぶと、辺りの戦友たちから、オレも我もと手りゅう弾を送ってきた。自分はありったけの手りゅう弾を次から次へと投げた。
昭和13年(1938)4月:戦場で負傷して
左手でよかった。早く球が投げたい。
昭和13年(1938)5月:負傷に関する新聞への談話
ひどい山で次々に山が重なっているのを突撃して行きましたが、二十三日夕刻、自分が名付けた鉢巻山の頂上で猛烈な敵の斉射を受けました。避けるところもない岩山で友軍の砲撃に折れて倒れた大木があったからそれを楯に軽機を備えて応射していると、その大木を敵の銃弾がブスリブスリと飛び越えて来るのでこれは危ないと思った瞬間やられたのです。冷たいというのか熱いと言うのか、得体の知れない感じでしたが、そのときすぐこれなら働けると思いました。右手ならこれから投げられませんからね(以下略)。
昭和13年(1938)出征中:野球界編集長への手紙
相撲の記事が多すぎます。もっと野球の記事をふやして下さい。
昭和13年(1938)出征中:戦塵だより 第一信
その後皆様お変わりありませんか。内地の方も近頃は暑いことでしょうね。いま自分達のいます地方は、とても猛烈な暑さで特に日中は堪えられないほどです。しかし運動で鍛え上げた身体には、そう大したこたえもありません。(中略)
現在の自分達は、○○(筆者注:軍機密保持のため伏字)から比島○○島に休暇に来ています。しかしまた近く戦線に帰ります。身体のことはご心配なさらぬよう元気にご奉公いたしています。実際身体の強いのは幸福です。戦地では尚更のことです。別に変わっていません。ただ時々盲腸が痛んでくるぐらいです。
戦場で一番懐かしいのは内地の出来事、皆様の便りです。皆様充分にご健康にご注意くださいまして、いよいよお元気のほど、遠く戦地より祈っています。
正男にもよろしくお伝えください。実際学生生活は人生の華ですからね。とみ子も、武史も、幸治もみんな元気でやってください。兄貴は元気に朗らかにやっている。大いに元気だぞ!ではまた。
昭和13年(1938)出征中:戦塵だより 第二信
永らくご無沙汰いたしております。皆々様にはその後お変わりもなく、いよいよご壮健のことと存じます。私もいたって元気に、毎日軍務に戦闘に励んでいます。
いま自分達は○○方面に進んでいます。この間の行軍は猛烈でした。支那もこの頃では、一朝ごとに涼しく秋らしくなってまいりました。たぶん内地の方も、今が一年中で一番気候のよいときでしょう。
また秋のリーグ戦が始まることでしょうね。実際月日の過ぎるのは早いものです。自分たちが内地を離れてからもう半年になろうとしています。その間の変化の多かったこと、今思い浮かべるとことごとく夢のようです。自分もいろいろとお便りしたいこともたくさんありますが、休暇にあるときでしたらすぐにでも出せるのですが、戦闘の第一線に立ったときはとてもお便りもできません。
初めの頃は淋しいときも時々ありましたが、現在では愉快な毎日です。朗らかに戦っております。(後略)
昭和15年(1940):戦地から帰還して
芝生の上に立って白いボールを握ったときのうれしさは、死線を乗り越えてきた者だけにしか味わえない…。
昭和15年(1940)6月頃:『野球界』のインタビュー
兵隊に行く前は十八貫六百だった体重が、帰ってきた当座はなんと十九貫五百にもなっていたのに、その後一ヶ月ぐらいの間に十七貫八百になってしまいました。当分休養してればよかったのでしょうが、グラウンドに出てみると球をにぎってみたくて仕様がありませんし、投げてみたい気持ちをどうすることも出来ずに練習しました。それでやせたのでしょう。(中略)だが戦地では野球のことを考える余裕はありませんでした。第一線に前身しなければなりませんでしたから。帰るとただボールを握りたい一心で、まだ僕は若いんですね。無性でした。プレートに立って相手に怖れを持つようなことはありませんでした。ただ相手選手が半分以上も新しいのにはびっくりしましたし、勝手がわからないので弱りました。
全チームの試合ぶりをベンチから見ていると、僕が兵隊に行くときよりもみなうまくなっていると思われます。フイルディングはそうも思いませんが、バッティングはずっとうまくなったと思います。
昭和15年(1940):不調を心配する鈴木惣太郎に
大丈夫ですよ。安心してください。生れてからまだ肩が痛いということを知らない僕です。戦地で随分使ったこの肩が、幸いにもますます頑健になって行くのには嬉しくてしようがないくらいです。手榴弾なんか100メートル近く投げられますよ。肩も心も張り切っています。いつかはきっと…。
昭和15年(1940):水原茂に
僕はまだまだ彼(スタルヒン)には負けませんよ。やつより速い球を投げてみせます。
昭和15年(1940):練習中にグラウンドに倒れこんで楠安夫に
ちくしょう、マラリアが出た!
昭和15年(1940):『モダン日本』の手記
現在の自分はまだ昔の沢村に戻っていない。新規巻き返しの気持ちでやっている。
昭和15年(1940):『モダン日本』の手記
戦線から帰還後の最近ではしばしば眠られない夜がある。軍隊に入る前にはゴロッと横になるとすぐさま熟睡に落ちてしまう他愛のないものであったが、殊に近頃のような暑い夜になるとなかなか寝つかれない。恐らく戦争でいら立った神経がまだ完全に静まっていないせいだろうと思う。そこで眠られぬままに過ぎこし方の追憶にふける時、これは夢ではないかと思うほど過去のさまざまなあたかも規則的に走馬灯のごとく次から次と浮かんでくる…。
昭和15年(1940):同僚に
俺は戦地では勲章の三つや四つはもらえる働きをしている。
昭和15年(1940):宿舎で先に風呂に入るのを遠慮している投手陣に
お前ら投手だろ、汗びっしょりかいて帰ってきたら、体冷やすと百害あって一利なしだぞ。
昭和15年(1940)11月5日:弟正男への手紙
正男、健康で仕事に励んでいる様子を知り大変嬉しく思います。お前も入隊が近づきさぞ大変のことと思うが、男として一度は行く所なのだから何も心配はいらぬ。(中略)人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ。苦しい、そして誰にも言えない事はこの俺に言って呉れ。出来ることは何でもする。安心して言って呉れ。
昭和15年(1940):入営する千葉・吉原・平山に
おい三人、お前たちもいよいよ戦争に行くらしいが、戦火が広まったからよっぽど気をつけて行ってこいよ。
昭和16年(1941)10月:再召集されて家族に
わしゃ、運が強いから敵のタマは当たらん。
昭和16年(1941)10月:『沢村投手を兵営に訪う』という訪問記に
(軍隊と野球の共通点は)何も考える余裕がないのです。体が資本でプロにいた時よく揉まれて鍛えあげてきたので、それが何よりの身上ですわ。(兵役を終えたら再び復帰するかどうかは)まだ考えていません。今迄はプロ球人として、生業に忠実にやり通してきたので心残りはありません。この連隊は多くの戦友が戦場に行っていますので、帰ってから”プロへ入る”という様なことは…。僕たちもいつ戦場へ行くか知れない身ですから…」
昭和16年(1941)10月:『戦う野球選手の手記』
いつ、どこから船出して、どこに上陸したなんてことは、軍機の秘密であるから、いまだ語るわけにはいかない。だが、自分達は大東亜戦争が勃発すると間もなく、比島のある場所に壮烈な敵前上陸をやったのだ。そうし、それは最初から死を覚悟で、海中にざんぶと飛び込むという九死に一生の難戦であった。
敵はいまだ日本軍の本当の強さを知らなかったし、飛行機…それからあらゆる新鋭の火砲をもって必死と防戦に努めたのだから、敵前上陸成功後も決して楽な戦争ではなかった。だが自分達の舞台は、人物にも装備にも間然するところない精鋭であったし、…自分達は支那事変に出征して、支那兵が負けても負けても勇敢に挑戦してくる、その本当の原動力が、重慶なんかではなくって、米と英にあることを、憤懣この上もないものを…いたのだから、今度こそ日本にとって真実の敵と戦えるのだという…(後略)
昭和18年(1943)1月某日:インタビューに答えて
無性にボールが握りたい一心です。「昔の夢を持っててはいけない」と忠告してくれる人もいますが、ついつい投げたい。
昭和18年(1943)1月某日:青田昇に対して
(戦場の体験談の後)日本人もひどいことをやるが、アメ公もえげつないことをやるぜ。
昭和18年(1943)1月某日:青田昇に対して
(米国遠征のとき3A時代のディマジオに打たれた体験談の後)これから大リーグに上がっていこうという若いやつの中には、こんな凄いのがウヨウヨいる。向こうの野球は奥が深いぞ。
昭和18年(1943)1月と推定:多田文久三に対して
(ボール投げの遠投記録(105m)や手榴弾投げの記録(85m)を聞いて)たったそれだけか。
昭和18年(1943):捕手にコンバートされた多田文久三に対して
お前ピッチャーやなかったんか。忙しいやっちゃな。
昭和18年(1943)6月1日:『相撲と野球』掲載
自分が世に生まれて来てから成人するまでに、何に一番強く心身をぶちこんだかと訊かれると、即座に“野球”と答へられるのであるが、戦争に出て行って、何が一番役にたったのかと訊ねられると、自分は躊躇なしに“野球の鍛錬”と答える。(中略)
二死満塁ツースリーという危機に立っていた。この状況で手りゅう弾を的確に投げられるという自信は、野球の鍛錬から体得したものだ。
大別山の戦闘で、左の掌を打ち抜かれた時でも、興奮からすっかり覚めて、病床に横たはってゐる間に、出征から戦場までを思ひかへしてみて、野球をやってゐたからこそ…そして野球の鍛錬に耐へてきたからこそ、あれだけ働けたのだともつくづく野球鍛錬の有り難味が思ひ出されるのであった。(中略)
そこで自分が“野球の鍛錬”といふのは、必ずしも技術の鍛錬を指すのではなく、それよりも技術を練磨する間に、識らずしらずして鍛へ上げられる精神の鍛錬…それから自分の母校、自分の球団の名誉を賭して争ふ度胸や機略といふものが、戦争の場合に、非常に役立つことをこんどははっきりと見極はめることが出来た。
昭和18年(1943)7月9日:別所昭の速球を投げるためにはという質問に対して
走るんや。別所君。
昭和18年 (1943) 某日と推定:大丸野球部の練習中に突然やって来て山口千万石に
お前がおってピッチャーになに教えとるんや。もつとマウンドをうまく使って投げさせんか。
昭和18年(1943)某日:多摩川河川敷を走る軍用列車を見て
今度は俺の番や…!
昭和18年(1943)某日:多摩川河川敷で練習していた法政大の関根潤三に
キミ、ええ球放るなあ。
昭和18年(1943)某日:青田昇に対して
米兵は強い。戦争はすぐには終わるまい。赤紙はもう一度、来るだろう。
昭和18年(1943)と推定:妻優子の「戦争を恨まないの」という質問に対して
………(無言)。
昭和18年(1943)11月某日:小鶴誠に対して
ツボさん、あんた、軍隊行ったかね。(首を横に振った小鶴に)オレはなぁ。もう行かん。絶対に行かん!
昭和18年(1943)11月某日:小鶴誠に対して
(大粒の涙を流しながら)球団は冷たい。あんまりだ。
昭和19年(1944)2月某日:球団事務所から家に帰って妻の優子に
野球やめるっ!
昭和19年(1944)2月某日:鈴木惣太郎に対して
一月中待ったが巨人軍からなんの通知もないさかい出てきたのや…ほしたら、もうきみはいらんというのや…
昭和19年(1944)某日:仕事を紹介しようとした鈴木惣太郎に対して
野球ができないんなら俺は一生、職工でいい…
昭和19年(1944)3月某日:三宅大輔の勧誘に対して
カムバックできないと言われているんです…三宅さんはぼくを慰めてくれてるんでしょう。カムバック出来ないのを承知で…本当にもう1度マウンドに立てるんですね…。
昭和19年(1944)4月某日:三宅大輔への葉書
三宅さん、戦争から帰ったら、あの話の返事をします。
昭和19年(1944)4月中旬:青田昇への手紙
とうとう三度目の旅にでることになった。今度はどこに連れていかれるやら皆目わからぬ。聞けば君も旅に出ているそうだから、再び会えるかどうか。どうか体に気をつけて、がんばってくれ。
昭和19年(1944)4月中旬:入営のために駅に向かう途中で父に
俺はもっと自分を大事にすればよかったのだ。沢村沢村とちやほやされたものだからいい気になって、自分を酷使してきた。それに対して報われるものが何であったか。俺はていのよいダシに使われたのだ。お父さん、やっぱり俺は道をまちがっていたんだ。職業の世界は、俺にとっては苛酷でありすぎた。一介のサラリーマンでもいい、もっと堅実な方向へ進むべきだった。大投手なんておだてられて、将来のことを考えず、いい気になっていた俺が、つまり馬鹿だったんだ。
昭和19年(1944)11月:妻優子への最後の手紙
生きて帰れたらいい父親になる。
日ごろの口癖:妻優子に
まっつぐ(真っ直ぐ)が好きや。
軍隊時代の某日:実家への手紙
時々塹壕の中でアメリカ遠征などを思い出します。皆んな夢のようです…
軍隊時代の某日:戦友に
俺の身長(174センチ)がもう10センチ高かったら、大リーグに行ってたのになぁ。
感想はこちらまで。昔の野球ファンのたくさんのご意見をお待ちしています。