七回裏:沢村栄治のいた時代
‐昭和九年の日本‐2008.9.7更新
[出来事]
・2月19日:野呂栄太郎が特高警察に虐殺される
共産党員の経済学者で『日本資本主義発達史』などの著書がある野呂栄太郎(当時34歳)が東京品川署で特高警察により虐殺された。特高・憲兵隊の取り締まりは軍国主義化が進むにつれて共産党員・社会主義者から自由主義者、果ては野球選手にまで及び、イーグルスの中河美芳は憲兵隊に目をつけられ、入隊してからも戦死するまでいじめられ通しだったという。画像は「タコ足」といわれた中河の一塁守備(『野球の妙技』)。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
中河美芳の一塁守備
・3月21日:函館で大火災
18時53分に出火、折からの強風にあおられ、たちまち函館全市に広がった。この当時の函館は戸数42117、人口216900人だったが、焼失家屋24186戸、罹災者124550人、死者2054人、行方不明者662人、重軽傷者12592人と、まさに大惨事になった。この火災と後に続く凶作が当時日本一と謳われた久慈二郎(函館オーシャン)のジャイアンツ退団の原因となり、沢村は最も信頼できる捕手を失った。この火災では久慈の家のほか、ジャイアンツで守備の名手といわれた永沢富士夫(このときは未入団)の家も焼失した。画像は久慈次郎。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
戦前の名捕手久慈次郎
・4月10日:中国共産党が「全国民衆に告げる書」を発表
満州事変の後成立した満州国は漢民族・満州族などの五族協和を謳っていたが、実態は日本の傀儡政府でしかなく、入植した日本人に与えられた土地や財産は中国人から一方的に奪われたものであった。「告げる書」は国民党との反日統一戦線・抗日救国の6大綱領からなり、後の国共合作・徹底抗日につながっていく。沢村もまた後に中国との戦争に駆り出され、左掌に貫通銃創を受傷するなど、野球生命のみならず生命そのものを脅かされることになる。画像(右)は負傷した沢村。
左腕を貫通銃創で負傷した沢村
・4月21日:忠犬ハチ公の銅像完成
上野英三東京帝大教授の飼い犬ハチは雨の日も風の日も渋谷の駅前でご主人の帰りを待っていた。ところが、ご主人の上野教授が急死。それでもご主人の死を知らぬハチは今まで同様渋谷駅前でご主人の帰りを待ち続け、人々は不憫がって涙を流した。いつしかハチは親しみを込めて「ハチ公」と呼ばれるようになり、忠犬としてこの年銅像になった。現在でも「ハチ公の銅像の前」は待ち合わせ場所の代名詞である(かな?長いこと東京に行っていないので。) ただし、ハチ公のこの忠義、駅の近くに犬に餌をくれる人がいて、それ目当てだったと穿った見方をする人もいる。
・6月10日:エンタツとアチャコが「早慶戦」をラジオ中継
漫才の横山エンタツと花菱アチャコが盛り上がる早慶戦をネタにした漫才をラジオ中継した。
楽曲に合わせた卑俗な掛け合いが中心だった漫才を革新しようと考えたエンタツ・アチャコは、大衆の日常感覚や時事性を漫才に取り入れようと苦闘していた。彼らが目をつけたのが野球。ちょうど大人気を博していた早慶戦のラジオ中継をパロディにすることで大人気を得た二人は、この日それをラジオ中継することで、全国区の人気を獲得していく。(この記述は2005.6.8放送のNHK番組『その時歴史が動いた-エンタツ・アチャコの漫才革命』を参考しています。) 画像は昭和6年の早慶戦で名を馳せた伊達正男。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
・6月21日:陸軍省が被服統一運動開始を宣言
陸軍省がカーキ色を国防色として全国民の服を統一する運動を始めると新聞に掲載。この後男子は国民服と呼ばれるカーキ色の軍服風の服を、女子は絣のモンペ姿となることを強要されていく。プロ野球選手も例外ではなく、戦時色の強化とともに、野球帽が軍帽に、最終的にはユニフォームが軍服になっていく。そんな中、沢村は動員先の工場にジャイアンツの野球帽とスタジアムジャンパーで通勤していたという。画像(右端)はスタジャン姿の沢村。
楠安夫・呉昌征・飯泉マネジャーと
・8月19日:ヒトラーがドイツの全権を掌握
ヒンデンブルグ大統領の死去に伴って行われたドイツの国民投票は、ゲッペルス宣伝相の活躍で圧
倒的支持の下、ヒトラーに総統と大統領を兼務する全権を付与した。ファシズムは武力によって政権を握ったのでなく、国民の支持によったのは日本も同様である。この後ヒトラーユーゲントの来日などもあって日本国民は急速にナチス・ドイツへのシンパシーを深め、第2次大戦で共倒れすることになる。沢村がヒトラーについてどう思っていたか、あるいは知っていたのか、今となっては知る由もない。
・9月21日:室戸台風襲来
8時2分、大阪四天王寺の五重塔が参拝客を下敷きにして木っ端微塵。大阪の小学校は44校が倒壊、中でも天王寺小学校は児童676人、教員18人が下敷きになって死亡。
同時刻、京都西陣小学校(京都商業に近い)が倒壊、児童500人が下敷きになった。
8時12分、東京発下関行き東海道本線急行が滋賀県大津市瀬田川鉄橋で転覆、175人が死傷。
その後大阪は台風の目に入ったため一時晴れ上がったが、それもつかの間、高潮が市街地を襲い、東淀川区の外島保養院では約200人が犠牲になった。
この台風で関西を中心に四国、北陸を含めて死者・行方不明者3,246人、負傷者約15,000人、家屋の全半壊88,046戸の甚大な大被害を出した。
台風の中心気圧は911.1ヘクトパスカル、瞬間最大風速は60m/secで、有史以来最も大型の台風であった。しかし、当時の貧弱な情報網は暴風雨のために寸断され、関西の市民は何の注意報も警報もないままに職場や学校に向い、無防備なままに次々と自然の猛威の前に倒れていった。
京都で学生生活を送っていた沢村はこの台風から1ケ月もしないうちに全日本入りのため東京に向かうことになる。画像は上京当時の沢村。
学生服姿の沢村
・10月3日:26年ぶりの大飢饉が決定的に
農林省は昭和9年の米作予想は例年のおよそ2割減で、大正2年以来の凶作と発表。米価が高騰し、「飯米」飢饉と呼ばれる農村恐慌が起こった。北海道・東北では特に深刻で、欠食児童や娘の身売りが続出。11月13日の北海道庁調べでは道外に身売りの娘2,756人、うち芸娼妓735人、酌婦575人など。スタルヒン(旭川中)が読売に売り飛ばされた(も同然の入団の仕方をした)のも東北・北海道のこのような荒み方と無縁ではなかろう。画像はスタルヒンの投球フォーム(『ノーヒットノーラン物語』)。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
スタルヒンの投球フォーム
・11月1日:特急「あじあ号」発進
南満州鉄道株式会社(満鉄)が大連‐新京(長春)間を結ぶ特別急行列車「あじあ号」を発進させた。欧米と同じ広軌、展望車・冷暖房完備の超豪華列車で、日本の満州支配の象徴となった。だが、最高速は当時の最新の科学技術の粋をほどこしても110km/h(一説には130km/h)。沢村の速球のほうがはるかに速かった。ちなみに、「あじあ号」をはじめとして、当時は「流線型列車」が流行したが、「流線型投手」と呼ばれたのはプロ野球史上ただ一人、軟式野球の奪三振王、金鯱軍の内藤幸造(リーガル)だけである(どんな投げ方やねん。体型か?)。内藤は明倫小時代に沢村と同級生だったらしい。画像は内藤幸造。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
軟式野球の奪三振王内藤幸造
・12月1日:丹那トンネル開通
東海道線の熱海と函南を結ぶ丹那トンネルは7年で完成の予定だったが、複雑な地質、次々と湧く地下水、鋼鉄製の柱をも曲げる粘土質により実に16年の歳月を費やし、67名の犠牲者の上にようやく完成した。当時世界一長い(7084m)トンネルで、コンクリート注入法など、その後のトンネル技術の基礎となる技法が編み出された。沢村が最初に上京したときにはまだ完成していなかったが、その後は地方遠征のたびにこのトンネルを通過したに違いない。画像(右)は遠征先でくつろぐ沢村。
スタルヒン・内堀保と
・12月1日:ソ連で大粛清始まる
キーロフ政治局員の暗殺を契機として、書記長スターリンの他の党員に対する一大テロが開始された。犠牲者は20,000,000人といわれる。近代化と機械化を進めていた有能な軍人が粛清されたことが赤軍の弱体化を招き、独ソ戦を招来したばかりか、いたずらに損害を増加させた。この後ソ連では長く労働力の不足に悩み、日本人捕虜の強制労働につながっていく。戦場で生き延びてシベリアに斃れた野球人も多い。ジャイアンツの主将水原茂や戦後ホークスの準エース柚木進がシベリアで働いていたのは有名である。画像は柚木進の投球フォーム(『名将列伝』)。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。
柚木進の投球フォーム
[流行歌]
急げ幌馬車
島田芳文作詞、江口夜詩作曲、歌:松平晃
松平晃の「サーカスの唄」以来の大ヒット。「日暮れ恋しや 荒野ははるか 急げ幌馬車 鈴の音だより どうせ気まぐれ さすらいものよ」というパトロール形式の曲調。
さくら音頭
PCL映画「さくら音頭」主題歌、長田幹彦作詞、中山晋平作曲、歌:小唄勝太郎、徳山l、三島一声
前年の「東京音頭」のヒットに始まった音頭ブームの頂点をなす作品。ここで紹介したビクター版のほかに、歌丸・富勇のコロムビア版、喜代三・東海林太郎他のポリドール版、美ち奴・東海林太郎のキング版、さらにニットー版、タイヘイ版もあった。さらにこの歌にタイアップした映画はビクター、PCL、コロムビア、松竹、大都の5社が競作した。「ハア 咲いたさいたよ アリャサ 弥生の空に ヤットサノサ アリャ ヤットサノサ 桜パッと咲いた」という軽快なメロディ。
赤城の子守唄
佐藤惣之助作詞、竹岡信幸作曲、歌:東海林太郎
35歳の新人東海林太郎の2曲目。「泣くなよしよし ねんねしな 山の鴉が啼いたとて 泣いちゃいけない ねんねんしな…」という哀愁を帯びたメロディが400,000枚の大ヒットとなる。東海林は早稲田大出身で元満鉄職員の超エリート。直立不動で歌うスタイルが人気を呼んだ。
ルンペン節
帝キネ映画「ルンペン熊公」主題歌、柳水巴作詞、ビクター文芸部作曲、松平信博編曲、歌:徳山l
街に失業者があふれていた昭和6年に映画「ルンペン熊公」の主題歌としてヒットした歌を再度吹き込みなおしてヒットした曲。「青い空から 紙幣の束が降って とろり昼寝の 頬ぺたを叩く 五両 十両 百両に千両 費い切れずに 目がさめた」という歌詞にふんだんにアドリブがきいていて、戦前の歌とは思えない。
並木の雨
高橋掬太郎作詞、池田不二男作曲、歌:ミス・コロムビア
当初は竹田友紀子が歌うはずだったが、作曲家池田がどうしても気に入らず、アルバイトがばれて歌うのを止めていたミス・コロムビアが東京音楽学校を卒業するのを待って吹き込んでヒットした。高橋は昭和6年に「酒は涙が溜息か」で大ヒットをとばした作詞家。「並木の路に 雨が降る どこの人やら 傘さして」で始まる。
山は夕焼け
岡田千秋作詞、田村しげる作曲・編曲、歌:東海林太郎
東海林太郎の1曲目。「山は夕焼 麓は小焼 ひとりとぼとぼ 裾野に暮れりゃ 吹くな凩 侘びしゅてならぬ」というしみじみとしたメロディは叙情曲を多く書いた田村しげるの出世作となった。松竹が映画化、徳大寺伸と高杉早苗が主演した。
国境の町
大木惇夫作詞、阿部武雄作曲、歌:東海林太郎
東海林太郎の3曲目。「橇の鈴さえ 寂しく響く 雪の曠野よ 町の灯よ」とこれまた哀愁を帯びたメロディが大ヒット。満州でも盛んに歌われた。中国ものは敗戦まで一種の流行となる。
ダイナ
三根徳一作詞、H.Askt作曲、歌:ディック・ミネ
ディック・ミネこと三根徳一がビング・クロスビーの歌を翻訳し、自ら歌ってヒットさせた。三根は立教大学出身。「ダイナ 私の恋人 胸にえがくは 麗しき姿 おー君よ ダイナ」という甘いメロディが当時のモボ・モガ(モダン・ボーイ、モダンガール)たちに大うけした。ちなみにこれを更にパロディにしたエノケン(榎本健一:昭和の喜劇王)の歌があり、次のように始まる。「旦那、お金をちょうだいな」。
黒い瞳
三根徳一作詞、G.Stone作曲、歌:ディック・ミネ
「ダイナ」のB面に収録されて共にヒットした曲。原曲はコンチネンタル・タンゴだが、さらに遡るとロシア民謡らしい。「黒き汝が瞳 なやましや 夢路よさむるな 君がひとみよ」という訳詩にもどことなくロシアの香がする。
[文学]
・早稲田文学
・転形期の文学
・あにいもうと
・山羊の歌
・にんじん
[映画]
・浮草物語
松竹映画、ジェームズ槙原作、池田忠雄脚本、小津安二郎監督、三井秀男・坪内美子主演
・会議は踊る
ドイツ映画、ノルベルト・ファレク脚本、エリック・シャルレ監督、リリアン・ハーベイ主演
・のらくろ伍長
松竹映画、田河水泡原作、林田安司作画・演出、アニメーション
・一本刀土俵入り
松竹映画、長谷川伸原作、衣笠貞之助脚本・監督、林長二郎主演
・街の灯
米国映画、チャールズ・チャップリン原作・脚本・監督・主演
・婦系図
松竹映画、泉鏡花原作、陶山密脚本、野村芳亭監督、岡譲二・田中絹代主演
・隣の八重ちゃん
松竹映画、島津保次郎原作・脚本・監督、高杉早苗主演
[美術]
・「春峯庵」贋作事件
写楽の肉筆が発見された、という大ニュースが実は贋作事件だった。当時浮世絵鑑定の大御所と言われた笹川臨風は一連の作品を真作と鑑定したため、学者生命を絶たれ、以後浮世絵研究は美術学者の忌避するところとなった。また、贋作を実質的に製作した矢田金満(当時16歳)は神童と騒がれたが、過労から吐血して18歳で死亡した。
・「NIPPON」創刊
当時24歳、新進気鋭の写真家名取洋之助が創刊したグラフ誌。欧米のグラフ誌にも負けないと騒がれた。
[キーワード]
・日本人ここにあり
満州で抗日パルチザンに拉致された人質の一人村上久米太郎が、捜索隊に向かって「日本人はここだ」と叫んだため、捜索隊がこれに気づき、人質全員が救出された。村上は撃たれて重傷を負ったが、一躍英雄となり、『日本人ここにあり』という映画や歌謡曲にもなった。
・加州外国人土地法
米国カリフォルニア州が制定した移民排斥法。この法律によれば在米日本人は土地を所有できない。連邦大審院はこれを違憲としたが、排日機運は次第に高まり、沢村たちも第二次米国遠征の際にはこれに再三悩まされることになった。
・パパ・ママ論争
松田源治文相が「近頃パパだのママだのという言葉が流行しているが、日本古来の孝道がすたれる。お父さん、お母さんと呼ぶべきだ」と言ったところから起こった論争。カタカナ語に対する排斥は対米戦に入って一層強まり、ついに野球用語まで「日本語化」されることとなった。
・欠食児童
学校に弁当を持ってこれずに昼食を食べられない児童。東北地方を中心とした飢饉・農村不況によってこの年飛躍的に増加した。この数は戦争末期から終戦直後にかけてピークをなし、「欠食児童みたいに元気がない」といった冗談になるなど、昭和40年代まで言葉としては残った。
[誕生]
・玉置宏
司会者。「一週間のごぶさたでした。司会の玉置宏です。」という有名なせりふで始まる「ロッテ歌のアルバム」で一世を風靡した。
・長門裕之
俳優。映画『無法松の一生』に子役で出演。戦後は青春モノから時代劇まで、年齢に応じたジャンルで長く活躍。映画『にあんちゃん』でブルーリボン主演男優賞。
・財津一郎
俳優。手を頭に巡らせて対側の耳をつかみ、「きびしーっ!」と叫ぶギャグが印象的だった。タケモトピアノのCMでも有名。
・大橋巨泉
司会者。テレビ番組『11PM』『クイズダービー』などの司会役で大きな存在感を見せた。国会議員になったがすぐ辞任。「ハッパフミフミ」は流行語になった。
・坂上次郎
芸人・司会者。お笑いコンビコント55号で大人気となった。坂上次郎が人気タレントの女性と繰り広げる「野球拳」は世の母親族の顰蹙を買ったが、ガキ共はわくわくしながら見ていた。
・愛川欣也
司会者。「キンキン」の愛称で親しまれた。テレビ番組『なるほど・ザ・ワールド』司会時の「はい、消えた」は流行語と意識されないままによく使われた。
・牧伸ニ
芸人。「あーああ、やんなっちゃった、あーあああ驚いた」とウクレレを弾いて歌いながらの漫談で大人気となった。テレビ番組『大正テレビ寄席』の司会を長らく務めた。
・藤村俊二
俳優。
・中村メイコ
女優。
・司葉子
女優。
・池内淳子
女優。
・若尾文子
女優。
・井上ひさし
作家。
・ペギー葉山
歌手。
・石原裕次郎
俳優。
・池田満寿夫
彫刻家。
[訃報]
・直木三十五(43)
小説家。大衆文学の優秀作品に贈られる「直木賞」は彼を記念したもの。親が35歳のときに生まれたから「三十五」というなかなか安直な命名が戦前らしい。
・服部金太郎(73)
実業家。服部セイコーを創業。日本の精密機械工業を世界レベルまで引き上げた。
・マリー・キュリー(66)
科学者・医学者。ラジウムなど放射性物質の有用性を発見した。実験は彼女主導で行われたらしいが、有名なのは「キュリー夫人」の名。でも彼女自身がその呼称を気に入っていたことに少しは気づけよ、似非フェミ!
・初代桂春団治(56)
落語家。現代の我々には彼の「芸」そのものよりも「芸のためなら女房も泣かす」その生活姿勢のほうが有名である。
・竹久夢二(49)
画家。夢見がちな目をした少女を描かせたら天下一品。