殉球者列伝2011.522更新
[木村拓也を追加]
白球を愛し、白球に殉じた選手たちを顕彰する。
氏名 |
よみがな |
経歴 |
死亡 年月日 |
死亡状況 |
寸評 |
宇佐美和雄 |
うさみ かずお |
木更津中央高-ライオンズ |
昭和44年 3月14日 |
合宿での夜間練習中に打球を心臓に受けてショック死。 |
アマチュア時代の戦績は調査中。ドラフト3位で入団。 |
木村拓也 |
きむら たくや |
宮崎南高-ファイターズ-カープ-ジャイアンツ |
平成22年 4月7日 午前3時22分 |
ジャイアンツのコーチとして4月2日にシートノック中くも膜下出血で倒れ、数日後死亡。 |
高校時代に甲子園に2回出場し、強肩強打の捕手として知られた。プロ入りはドラフト外でしかもいったんは戦力外になるなどの苦労をするも、猛練習によってスイッチヒッター転向や数度の守備位置のコンバートに成功し、ユーティリティープレーヤーとして活躍した。有名芸能人と同じ読みの名前から「球界のキムタク」と呼ばれ、親しまれた。ジャイアンツの守備走塁コーチとしてこれから自分の体験を後進に伝えようとしていた矢先の死を惜しむ声が多かった。 |
久慈次郎 |
くじ じろう |
盛岡中-早稲田大-全日本-函館オーシャン |
昭和14年 8月21日 午前9時 7分 |
8月19日、第18回北海道・樺太実業団野球大会対札幌倶楽部戦で、捕手の送球をこめかみに受け、病院に運ばれるが死去。 |
大学時代のあだ名は「コレアのパン八」。大正10年の早大野球部米国遠征の際、搭乗した客船「コレア号」で皆が船酔いに苦しんでいるときに、平気でパンを8個も食べたことからこのあだ名がついた。早慶戦中断時代のため早慶戦では活躍できなかった。弱小函館を率いての奮闘は都市対抗の名物となり、昭和6.9年の日米戦では両方とも捕手として選出され、9年には沢村の投球も受けた。草薙球場での一戦も捕手は久慈。ジャイアンツの主将を予定されていたが家業の都合で退団。現在も都市対抗野球の「久慈賞」にその名を残す。 |
黒沢俊夫 |
くろさわとしお |
八尾中-関西大-金鯱-大洋・西鉄-巨人・ジャイアンツ |
昭和22年 6月23日 |
昭和22年度のプロ野球リーグ戦中に腸チフスで死去。 |
昭和5年春甲子園出場、6年春ベスト4、6年夏出場、7年春ベスト8、7年夏ベスト8の際の外野手。関西大でも4番として活躍。 |
佐藤喜久雄 |
さとう きくお |
慶応商工-セネタース |
昭和11年 |
熱中症で試合中に倒れ、死亡との説あり。 |
戦績は調査中。 |
志摩定一 |
しまていいち |
高松商 |
大正13年 |
夏の甲子園予選に胸部疾患を隠して出場し、無理がたたってその冬死去。 |
大正13年春甲子園優勝の際の三塁手。息を引き取る間際に「オレは死んでも、魂だけは高松商のサードを守り続けるぞ」と母親に言い残した。以後、高松商では試合前に三塁ベースを囲んでナインが肩を組み、主将が口に含んだ水をベースに吹きかけてから「さあいこう」と掛け声を掛けてからポジションに散るようになった。これを「志摩供養」という。 |
神田武夫 |
かんだ たけお |
京都商-南海 |
昭和18年 7月27日 |
肺結核に冒され、吐血しながら力投したが、優勝を逃がす。引退して死去。 |
昭和15年春甲子園準優勝投手。この大会で優秀選手賞。15年夏大会でベスト8進出。2回戦対台北一中戦の好投は飛田穂洲に「白眉の名投」と称えられた。昭和16年の職業野球リーグ戦で防御率第9位、勝利数第4位。昭和17年は防御率第3位、勝利数第5位。 |
沢 昇 |
さわ のぼる |
関西学院中 |
大正11年 |
肋膜炎の熱を押して力投し、台湾で療養するも2年後肺結核で死去。 |
大正9年夏甲子園の優勝投手。チームメイトによると「全盛時代の南海の杉浦そっくりの投げ方で、外角のドロップ、スライダーがすばらしかった。直球も手元でぐっとのびた。それに打者の心理を読んだピッチングをした。打っても4番、とにかく一流の選手だった」という。 |
東門明 |
とうもん あきら |
松浪中-武相高-早稲田大 |
昭和47年 7月14日 |
7月9日に行われた第1回日米大学選手権第2戦で走者として出塁中送球を頭部に受け、一週間後に死亡。 |
古豪武相の投手として甲子園を目指すも準々決勝で甲子園出場の東海大相模に敗れる。猛勉強して早稲田大に進学し、二年生にして早くも全日本に選ばれるが、不幸な事故で将来を断たれた。 |
北井正雄 |
きたい まさお |
大社中-米子鉄道局-関西大-阪急 |
昭和12年 8月7日 |
病(肺血腫に腸チフスを併発)を押して7月8日までリーグ戦に出場。力尽きて入院し、死去。 |
西村幸生とともに関西大のエースとして活躍。 |
堀定一 |
ほり さだいち |
高松商-慶応大 |
昭和11年 2月21日 午前7時半 |
入営中、病気の兆候を見せ、還った時は、首に大きな瘍(よう)が出来ていたという。都市対抗に出たり、大東京軍の上井草の練習にも参加。肺炎を引き起こし死亡。 |
大正14年春甲子園準優勝、夏優勝の際の右翼手。15年春ベスト8、昭和2年春出場・夏優勝の際の中堅手。大学でも活躍し慶応全盛時代を担った。昭和6年日米野球の全日本メンバー。戦病死ともいえるが、野球に殉じた名選手として戦没者慰霊から殉球者列伝に移動した。 |
アディー・ ジョス |
Addie =Joss |
CLBインディアンス |
1911. 4.14 |
生涯2度目のノーヒットノーラン達成のわずか一年後、結核性髄膜炎で死去。31歳の誕生日から2日後のことだった。 |
アマチュア時代の戦績は調査中。大リーグ9シーズン通算で160勝97敗、防御率1.88、最多勝1回、防御率1位2回、4年連続20勝、ノーヒットノーラン2回(うち完全試合1回)。 |
ジミー・ クレイトン |
Jimmy =Cleiton |
ブルックリン・エクセルシアーズ |
1862年 |
ホームランを放った際に内臓に出血を起こし、2日後に21歳で死亡。 |
最初のプロ野球選手といわれる。まだ投手が下手で打者の打ちやすい球を投げるのがルールだった時代に、球に手首でスピンをかけ、打ちにくくしたことでセンセーションを巻き起こした。 |
レイ・ チャップマン |
Ray
=Chapman |
CLBインディアンス |
1920. 8.16 |
ヤンキースの投手カール・メイズの投球をこめかみに受け、脳内出血で死去。 |
亡くなるまでの8年間で1053安打、通算.278、盗塁233の俊足遊撃手。温厚な性格で人望も厚かったという。メジャー・リーグ史でただ一人、ヒット・バイ・ピッチ(デッドボール)で死んだ打者。 |
-彼ほど人望のあった人はいない。彼を呼ぶのに久慈君という人はなく、一様に次郎さんと愛称を用いていたのでもわかりましょう。また、彼ほど純真な人間もまれです。私が特に深い愛情を有しているのも、この純真さのゆえでした。今日突然、久慈君ほどの人物を失ったことは、皆様ご同様、まさに断腸の思いでありますが、同時にかかる事態を惹起すべき不幸な運命を与えられた札幌倶楽部の吉田君の胸中をお察しすれば、まことに同情にたえません。誰が、故意にあんな事をしでかしましょう。それは人間として考えられぬ事です。すべては神のみが知る偶然によることですが、しかし吉田君は生涯忘れ得ぬ不幸な出来事として煩悶されているかも知れない。だが、万事が過ぎ去りました。吉田君は一日も早く暗い記憶を拭い去り、虚心坦懐、心機一転して再びグラウンドに立つべきです。故久慈君もそれを望んでいると確信いたします。どうか、今日ご参列の方々のうち吉田君にお会いする方がございましたら、安部がこう申していたと伝えてください。-
早稲田大学野球部長 安部磯雄
ここではアマチュア選手も顕彰・慰霊するため、職業野球選手も主にアマチュア時代の戦績を紹介した。
職業野球時代の戦績は沢村栄治人名辞典を参照。