一回裏:沢村栄治の球速は?再び

2002.10.162016.8.20

順次更新します

20球:東京五輪に向けて野球界は襟を正せ。2015.8.20

 開催中のリオデジャネイロ五輪、日本選手たちの快挙が続いている。

 驚いたのは男子400mリレーで、前回は失格絡みの銅だったのが、堂々の銀メダルである。

 私がそれよりも驚いたのは実は個々の選手の記録(100m)である。桐生の1001を筆頭に、山県1005、ケンブリッジ1010、飯塚10229秒台が一人もいない。100m10秒の壁を日本陸上はこの80年未だに破っていないのだ。ところが、4人の記録を単純に足すと、400mを走るのに4038。全員が力を合わせた記録は3760なのだ。1人あたま985で走っている計算になる。

 これは2走以降はバトンを渡される前に加速がほぼ終了しているかららしいが、それにしてもこれだけの力を持った選手たちが個人だとなぜ10秒の壁を破れないのか、不思議に感じる。

 私は2004年にこのコラム(8)で「末続(慎吾)はいずれ100m 9秒台を出すだろう」と書いたが、遂に彼が9秒台を出すことはなかった。当時の記録は1003

 

 久しぶりに陸上記録に興味が出て調べていると、面白いHPを見つけた。

 「日本歴代100傑に残る古い記録/男子・種目別編」というもので、過去の記録で現在でも日本記録100位以内に入っているものを紹介している。

 ここでは飯島秀雄が1968年に出した100m1039(自動計測)、同1964年の101(手動計測。+0.24で計算して1034)など、現在でも色褪せない記録が紹介されている。このHPでは手動計測の記録に対してかなり厳しい+0.24で計算しているが、誤差は+0.13程度でよいという説もあり、それだと1011024という、現在の選手でも飯塚並みの記録になる。

 既に第8球で取り上げた吉岡隆嘉が1932(84年前!)に出した記録は103だから+0.24だと1054となり、現在の中学記録くらいだが、+0.13で計算すると1043で高校1年生記録くらいとなる。それにしてもスパイクやグラウンドなど、道具や環境の違いを考えれば、やはり輝きの褪せることのない記録である。

このHPの管理人さんが感嘆しているのは南部忠平である。三段跳びでも五輪金メダリストになった彼の走幅跳びの記録は1931(85年前!) 7m98でいまだに歴代100位以内に入っている。日本記録は8m25(1992年の記録でこれも古い)だから30cm差くらい。南部さんが現代に現れて近代的トレーニングを受けたらこれくらいの差はすぐ逆転できるのではないだろうか。

 さて、今回の五輪ではやり投げもメダルの可能性があり、いよいよ今日競技が行われるが、期待の星新井涼平の記録は歴代2位の86m83。日本記録は溝口和洋が1989年に出した87m60で、これも既に保持期間は25年を超えた。野球でいえば伊良部秀輝(オリオンズ−ヤンキース他)の球速記録が今でも君臨しているようなものだ。

 

 このHPを見ると、昔の記録が残りやすいものは、徒競走や跳躍などの「自分の身体を自分で運ぶ競技」、やり投げなどの「単純な投擲系」で、道具を使用する競技でもあまり道具の質が変化していないもののようだ。

 これらの競技は世界記録と日本記録の差が大きく、日本では進歩が遅いような印象を与える。

しかし、これも何度も取り上げてきた問題だが、五輪でドーピングが発覚して失格になった日本選手というのは過去たった一人もいないのだ。摘発される選手が氷山の一角であることを考えると、これは世界に誇れることだと思う。薬物の問題に国際的に厳しく対処するようになった間接的な影響として、クリーンな日本選手の活躍が目立つようになったという面もあると考える。

 

翻って野球界では、この20年くらいで投手の球速やコントロール、打者のスイングスピードや飛距離などが大きく進歩している。

これにはプロがアマを指導することが可能になったという体制的な進歩、ビデオで繰り返し上手な選手を研究することが出来るようになったという技術的な進歩、リハビリテーション医学のスポーツへの応用によるトレーニングの進歩、指導者に対する教育の進歩、食生活の向上による体格の向上などの要因があると思う。

日本野球は日米戦開始の1930年代、競技人口が爆発的に増加した1970-80年代に続く、第三の飛躍期を迎えつつあるようだ。

ただ、選手の飲酒や喫煙習慣への寛容さや、サプリメントの過剰摂取、試合中に覚醒剤を使用していた選手の発覚など、どうも薬物に対する考えの甘さが伺える。

沢村栄治はおそらく160km/hを投げることはできなかったが、その球は何に頼ったものでもない、親にもらったおのがじしのみで放たれたものなのだ。

 

4年後の東京五輪では野球の競技復活が決定した。

真面目に練習している選手が一部の不心得者によって泣く、などということが東京五輪では決してないように、これから野球界はしっかり襟を正していただきたい。

 

19球:皆が忘れていること。2015.8.22

 今度こそ間違いなく公式戦で、しかも全力投球で投げている沢村発見である。この映像は繁岡さんという方が昭和111211日の職業野球王座決定戦第3戦の様子を8ミリフィルムで撮影したものだ。NHKの「クローズアップ現代」などでも取り上げられた出処の確かな映像であるから、いわば決定版である。

 まずこのフォームを見ての感想である。

 「足あげでない」ということに違和感を持つ人もいるかもしれないが、実はこの伝説的なフォームは気の向いた時に、あるいは撮影用に、稀にしか行わなかったことは、多くの証言で以前から知られていた。世の中の全ての話は面白い方に行く、ということをよく表しているエピソードである。

 

 さて、このフォームから私が見て取ったことは2つ。

 一つは上半身の柔らかさ、特に肩や肘の可動域の広さである。これも以前に書いたことだが、猿腕(医学用語では外反肘という)だった沢村は、普通に腕を上げても現在の投手たちが意識して行っている「捻り上げ」ができ、肩や肘の可動域を一杯に使った腕の振りが可能である。両側の肩甲骨がくっつくのではないかというくらいに一杯に胸を張り、肩→肘→手首と力が伝わっていく非常にスムーズで柔らかいフォームである。

 もう一つは強靭な下半身を示唆する速球投手にありがちなステップである。

 大地に楔を打ち込むような広く強いステップは鍛え上げた下半身の賜物である。

そして、多くの速球投手がそうするように、フォロースルーの瞬間に膝関節を伸展させて下半身の上に上半身を折りたたむようにして瞬発力を高めている。

 現在の投手と少し違う点は、上半身が腕の振りと共にやや屈曲しすぎる点であるが、これは1970年代くらいまでは一般的なフォームであり、池永正明(下関商高−ライオンズ)や東尾修(簑島高-ライオンズ)、山口高志(市立神港高-関西大-ブレーブス)などもこうした上半身の使い方をしていた。これは球の見え方やタイミングの取られ方、コントロールなどについて不利なフォームなので現在ではここまで上半身を屈曲させる投手はほとんどいないが、真っ向上段から投げる場合にはむしろ必要な動作である。

 沢村の多くの残っている静止画から見る限り多くの球はスリークォーターで投げていたのではないかと思われる節があったのだが(というのはこの当時の投手はそのときどきで結構リリースする位置を変えていたらしいからだ)、沢村は少なくとも全力投球では真っ向上段から投げていたことがはっきりと証明された。伝説の通りだったのである。

 あるいは本当に全力のときにはやはり伝説の通り「頭が地面に着きそうなほどダイナミックなフォーム」だったのかもしれない。

 同じ映像に映る景浦将が遠投140mを超える強肩にもかかわらず、明らかにたくさん投げることを意識して全力で投げていないのが伺えるのと好対照である。

 残念ながら沢村の球筋は見えないが、リリースの瞬間の指先の速度は推測できるはずだから、誰かにやってもらいたいものだ。

 

 それとは別に、皆が完全に忘れていることがあると思うので補足すると、このときの沢村は本当の全力投球ではない、ということだ。

 まず、沢村はこの試合が3連投目であること。沢村はこの王座決定戦で何と1戦から3戦まで3連投しているのだ。

 もう一つ、怪我をしていること。沢村は第1戦の守備の際、外野の返球を左の頬に受けて腫れ上がり、馬肉で冷やしながらの力投であった。

 そして決定的なことに、沢村は第2戦の後で眠れないほどの肩痛に襲われ、宿で用意した皿一杯の馬肉で一晩肩を冷やした後も残る肩痛を押しての登板だったということだ。これについては大和球士や鈴木惣太郎など複数の証言がある。あるいは上半身の過屈曲は肩の痛みによるものなのかもしれない。

 なにせこの年の沢村は米国遠征、国内公式戦、その他のオープン戦などで先発にリリーフにと少なくとも250回以上を投げ、この試合がこの年の最後の登板だったのだ。

 しかも、NHK番組の分析では、この映像は試合の終盤である。沢村がこの試合で投げた球数は手元に記録がないので分からないが、5回からのリリーフだから相当数投げた後の投球だと思われる。

 

 それでもこの力感のある素晴らしいフォーム。

 私は160km/h説はもともと信じていないが、130km/h説もこの映像によって消えたと思っている。もっとも人間は自説に固執すると見えるものも見えなくなるから、この二つは相変わらず残っていくだろうが。沢村の球速をドップラー式速度計測機で測る、ということが永遠に不可能である以上、この二説も永久に不滅、なのかもしれない。

 

 この強靭で柔らかなフォームで昭和9年から12年を投げまくった沢村が、兵役によってすっかり上半身が固くなり、さらに手榴弾投げによって肩が潰れ、横手からしか投げられなくなったことを思い出してしまった。

 やはり戦争は野球の敵である。

 

18球:もっと天才を大切にしよう。2011.8.5

  ネットで最も評価をめぐってもめる投手に、沢村のほかに江川(タイガース−ジャイアンツ)がある。江川ファンは江川を「史上最速」といい、アンチ江川は「昔のレベルの低い野球でそんなことがあるはずはない」とけなす。沢村の球速談義とそっくりの構図である。

 ここには、「スポーツも技術である以上必ず進歩する」という考えと、「人間のやることには必ず限界がある(つまり、いつかは必ず進歩が止まる)」という考え方の対立があるように思う。

 速い球を投げる、という行為も技術である以上必ず進歩すると考えれば、最高球速の記録は少しずつであれ必ず年を追って更新されていく。現在の投手は40年前の投手よりは確実に速い球を投げ、40年前の投手は70年前の投手よりも確実に速い球を投げる。

 一方で、速い球を投げる、という行為も人間がやることである以上必ず限界がある、と考えれば、最高球速の記録はどこかで止まり、更新されなくなる。西暦何年かの○○投手が出した記録は永遠の記録となり、それより後の投手の記録はタイ記録以上ではない。

 ここでは主に医学とスポーツという2つの観点からこの2つの立場について考えてみる。

 たとえば、寿命について。平均寿命。これは前者の圧勝である。70年前の日本人の平均寿命と現在のそれを比較してみると、倍以上になっている。ところが、長寿の限界。これは泉重千代さんの長寿記録が今も燦然と輝いている。もしかすると、それ以上の人が過去にはいたかもしれないと思わせる。これも、「昔の戸籍はいいかげんだから」と言い出す人がいるかもしれないが、泉さんのような人間関係の密な離島の人の戸籍は、現代の都会の戸籍よりよほど嘘がない、とだけ言っておこう。なぜこれだけ自信を持って言えるかといえば、人間の寿命は科学的に見て120歳が限度であり、すべての人類がこの限度以下の寿命しか持たないということが自明だからだ。

しかも、実は平均寿命についても、「戦争」「感染症」という2つの変数を排除すると、通説はがぜん怪しくなってくるのだ。なぜこんな非現実的なことを言い出すかといえば、スポーツの世界では変数のまったく違う競技を同じ名前がついているからというだけで平気で比較しているからだ。

 癌治療の技術。これも前者の圧勝である。だが、癌患者の数は現在のほうがずっと多い。食生活も含めた「予防」も考慮に入れると、昔の人は癌になりにくかったわけだから、昔の癌治療のほうが上である。これは完全に詭弁である。だが、スポーツの論議ではこの手の詭弁が平気でまかり通っているから、これがいかにおかしいかということを読者にこうした例で実感してもらった。

 さて、スポーツの多くの記録。

 たとえば、棒高跳び。70年前の倍くらいになっている。これでいくと、ものすごい進歩のようだが、実はこの競技、70年前と今では名前だけ同じで中身はまったく違う競技である。70年前の棒は竹製だったのが、グラスファイバーとなり、現在はカーボン、それも日々素材が進歩している。野球で言えば、ソフトボールと硬式球の遠投記録を比べるようなものだ。現在の選手が竹の棒で飛んだら、昔の選手がカーボンの棒で飛んだら、という人はいない。用具を持たずに競技した瞬間にもう「棒高跳び」ではなくなるから、純粋に肉体のみの選手の力量を比較しようがないからだ。

 このように、スポーツには、限りなく進歩し続ける科学技術の要素と、間違いなく限界がある生身の人間の要素があり、一見単純に見えるスポーツも間違いなくこの2要素から構成されている。

 たとえば100m走でさえ、昔と今ではグラウンドもスパイクもまったく違う。また、生身の人間の肉体も科学技術で改造してしまおうという動きも明らかにある。ドーピングである。現在までのところ、ヒト成長ホルモン(human growth hormone)を検出するドーピングテストはない。人権にうるさくない開発途上国で幼い子供を集めてスポーツ選手として最も適量のHGHを試行錯誤する人体実験が行われていない保証はないのである。

 では、野球ではどうか。筆者は40年近く前には片手取りのできない、利き腕で蓋をしないとボールが飛び出してしまうグラブを使っていた(単に筆者が下手だったのかもしれないが)30年前に軟式のグラブとしては最高級のもの(オールラウンドタイプ)(下手にもかかわらず)買ったとき、簡単に片手取りできるのに感動した。それでも、まだボールが入った瞬間に意識してグラブを閉めないとボールが飛び出すことがあった。だが、15年ほど前に中級品のオールラウンドタイプを買って使用したところ、ボールが自分からグラブに飛び込んでくるような感覚で収まるのにびっくりした。今のグラブはもっとボールが取りやすくなっているだろう。逆に、戦前のグラブは指の間の紐すらないものがある。さぞ使いにくいものだったに違いない。

 バットも、最近の金属バット(ただし軟式)は軽くてグーンと打球が伸びる。木のバットは素振り用にしか使っていないからわからないが。

 フォーメーションプレーも、サインプレーも、昔とは比較にならないほど進歩した。

 アンダーシャツも、空気抵抗の少ない素材だから、動いたり(特に腕を振ったり)するのも、昔のネル素材はもちろん何も着ない時と比べてもやりやすいはずだ。

 こうなると、野球も同じ名前がついているだけで、70年前、あるいは40年前とは違う競技だと言ってよい。記録を比べることが無意味なくらいだ。

 それでも、比べてみたくなる天才たちがいる。

 たとえば、1932年に100m10.3秒を出した吉岡隆嘉。2011年現在でも日本記録は10.00。手動計測より自動計測の方が0.2秒くらい遅く計測されるというが、最初に自動計測でオリンピック覇者となったロシアのワレリー・ボルゾフは手動でも自動でも記録がほとんど変わらないから、むしろ誤差が小さくなる、と考えたほうがよい。吉岡に現在のスパイクとグラウンドで走らせたい。

 1989年にやり投げで87.60mを出した溝口和洋。2011年現在の記録保持者村上幸史が83.27mである。1989年といえば、江川卓が引退してまだ2年だから、同時代と考えてもそう無理ではない。村上は野球のボールを投げさせると150m/h出すというが、全盛期の溝口の球速を測りたかった。

 1984年にハンマー投げで75m96を出した室伏重信。1984年は江川がオールスターで8連続三振を奪った年。息子の幸治の2003年に出した日本記録84m86はもちろん燦然と輝くが、重信は純黄色人種。3位は2007年に土井宏昭が出した74m08だから、重信がルーマニア人と結婚しなかったら、あるいは息子が後を継がなかったら、現在でも日本記録として君臨している可能性が高い。あるいは重信に西洋人やアフリカ人の血が入っていたら、もっと早くオリンピックのメダルが見られたのではないか、と夢想してしまう。

 そして、出現したとき沢村と比較された投手たち。沢村と比較されるということは、天才である、ということだ。江川卓もその一人である。

 先日、伊良部秀輝(オリオンズ−ヤンキース他)が亡くなった。1987年に158km/hの球速を出した投手である。かわいそうな死に方だった。2011年現在の日本人の球速記録は由規の161km/hにすぎない。みなさん、もっと天才を大切にしましょう。

 

17球:球速測定装置の比較と考察。2010.7.23

  ご存知のように現在投手の球速測定に用いられているスピードガン(ドップラー効果を利用したもの。以下ドップラー方式)は、もともと自動車の速度違反取締り用に開発されたものである。持ち運びが簡便だから速度取締り機械としても最も普及している。ところが、高速道路などの固定式自動取り締まり機械としては、豪雪地帯など一部の地域を除いては姿を消しつつあるそうだ。これは一つには安物の探知機でも設置が発覚してしまうのが最大の原因だろうが、もう一つの原因は誤差が大きくて、違反者が法的手段に訴えた場合に警察がしばしば敗訴したことらしい。

 では、最近の固定式はどんな原理のものかといえば、一つはループコイル方式(いわゆるオービス)、もう一つは光電管方式である。

 実はこの2つの方式とも過去に投手の球速測定に用いられたことがある。

 ボブ・フェラー(インディアンス)が戦後すぐの1946年に球速を測定して98.6マイル(159km/h)を計測しているが、この際に使用された「弾丸速度計測器」はループコイル方式のものであり、現在でも同じ原理の機械が弾丸速度計測器として用いられている。計測器はホームプレート上に設置されているから、これは終速である。このときの様子はYou Tubeで見ることができるから、興味のある方はぜひご覧になってほしい。

 光電管で球速を測定したのは堀内恒夫(ジャイアンツ)である。1966年に計測された記録は155km/hで、これも終速である。

 よくネットの球速談義で、昔の測定器での計測値はあてにならない、という話があるが、「昔の測定値は誤差が大きい」という意味では本当であろう。だが、「昔の測定値は原理的におかしい」という意味であれば間違っている。なぜならば、原理的に同じものが現在でも速度測定器として用いられているからだ。この誤解は、球速測定にループコイル方式や光電方式が用いられなくなり、主にドップラー方式が用いられるようになったことから来ている。

ループコイル方式や光電管方式は原理的に球速測定にそぐわなかったから使われなくなったのではなく、計測に大きな労力が必要だから簡便なドップラー方式に取って代わられただけである。ボブ・フェラーの球速を測った「弾丸速度計測器」の写真を掲げておく(右隅に映っているのはフェラー本人)。こんな大掛かりな装置を設置しなければならないだけで大変な手間である。しかも、速球投手はノーコンが多いから、枠内になかなかボールが通らない。堀内はしまいには装置を壊してしまったそうだし、フェラーの動画を見ても、枠をかすって機械の一部が吹っ飛んでしまう様子が映されている。

現在の投手たちの球速をループコイル方式や光電管方式で測ってみたら、興味はつきない。でも70年前の投手に負けた投手はショックだろうなあ

説明: Bob Feller

 

16球:当時の雑誌には133km/hと記述されていた。2008.11.11

  『東京ジャイアンツ北米大陸遠征記』(東方出版)という労作がある。この本の著者である永田陽一氏が著述の資料として当時の野球雑誌を調べていて発見したらしい。以下は引用である。

「沢村の快速球のスピードはどのくらいのものだったのか。プロ野球リーグが始まって2年目、1937年の雑誌は秒速37メートル(時速133キロ)と発表している。科学的計測値とするが、どれくらいの精度かは不明である。」

 ボブ・フェラー(インディアンス)の球速を測った軍の弾丸速度計測器が当時既に日本にもあり、それで測ったとすると、沢村の球はフェラー(平均159km/h)より20km/h以上遅かったことになる。この機械は終速を測るから初速で140km前後だろうか。

 しかし、弾丸速度計測器が当時の日本にあったのだろうか。また、投手の球速を測るというような酔狂に軍の貴重な機械を貸してもらえたのだろうか。第一フェラーの球速測定が弾丸速度測定器を用いて行われたのは1946年であり、それ以前の測定はオートバイを投球と同時にスタートさせるというような極めて原始的な方法でしか行われていない。おそらく計測は弾丸速度測定器で行われたものではないだろう。

 では、133km/hという数字はどこから出てきたのだろう。筆者はここに沢村神話の原初の形を見る。沢村の球速は常にその時代の最速よりも速いという表現で語られてきた。金田正一(スワローズ他)が登場すると「金田より沢村が速かった」、尾崎行雄(フライヤーズ)が登場すると「尾崎より沢村が速かった」と言われた。その後堀内恒夫(ジャイアンツ)、平松政次(ホエールズ)、江夏豊(タイガース)、江川卓(ジャイアンツ)、山口高志(ブレーブス)、松坂大輔(ライオンズ他)と、速球派が登場するたびに、「○○より沢村が速かった」と主張する人が現れた。投手の球速が計測されるようになり、最速が150km/h超だとわかると、「沢村は150kmを常時超えていた」となり、最速が160km/hに迫ってくると沢村160km/h説が登場した。

 つまり、沢村は常に「その時代の最速よりも速い」のである。ここに沢村神話の本質がある。

 沢村が生きていた時代の最速は沢村自身であった。「沢村は沢村より速い」とは言えない。だから、「弾丸とどっちが速いか」といわれた。しかし、弾丸の速度は当時の日本の技術では測れなかった。測れたのは飛行機、列車、自動車などだが、飛行機は人々の視点からはるかかなたを飛んでいくから意外に速く感じない。自動車は見た目にもあきらかに人の投げる球よりも遅い(当時の最高速は100km/hにも満たない)。人々が「速い」と感じるもので速度の計測が可能なのは列車であった。当時の列車(「弾丸列車」というネーミングが象徴的である)の最高速は120-130kmである。当時の雑誌記者は「沢村は弾丸列車より速い」といいたかったのだろう。その表現が「133km/h」だと考えると合点がいく。

 沢村神話は「君たちには決して追いつけない存在がある」という形で、21世紀の今も、有り余る才能によって傲慢になりがちな若い野球選手を叱咤激励しているのである。画像はボブ・フェラー(動画の見たい人は動画日本野球殿堂をごらんください。)

説明: Bob Feller

 

15球:ネタ狙いでコマ数を数えてみた。2008.11.1

  14球で「コマ数を数えても誤差を考えると無意味」と書いたが、せっかく沢村の全力投球の画像があり、肉眼以外には球速の手がかりはないのだから、とりあえずコマ数を数えてみた。コマ数は動画編集ソフトUlead  DVD movie writer advanceの編集機能で、かなり小さな秒数(0.01秒となっているが、藤川球児(タイガース)の速球のコマ数を数えたところ13コマで、どんな速球投手でも投捕間を0.13秒で通過する球は投げられないからこれは怪しい)でコマ送りができる機能である。まず比較のために藤川球児・石井一久(スワローズ他)などの150km/h超の速球派のコマ数を数えてみた。数えるコマはボールが手を離れた瞬間のコマを1として、キャッチャーがミットを閉じる瞬間の1コマ前のコマまでである。参考までに選手生活晩年の堀内恒夫(ジャイアンツ:最高140km/h前後)や高橋一三(ジャイアンツ-ファイターズ)などの、速球派とはいえない投手の投球や、若林忠志(タイガース-オリオンズ)やスタルヒン(ジャイアンツ-スターズ他)など沢村と同時代の投手の投球、あるいはボブ・フェラー(インディアンス)やボブ・ギブソン(カージナルス)など、米国の速球派の投球のコマ数も数えてみた。古い投手のものは現在の投手のものと違い、画像が悪いうえに2コマに1つしか動作が進まないから、主観が入ってかなり甘めになっているかもしれない。まあ、ただの話のネタだと思ってください。

スピードガン後の投手

SG前の投手

投手

コマ数

球速

球種

投手

コマ数

球種

 

 

 

 

ギブソン

12

 

 

 

 

ギブソン

12

 

 

 

 

ギブソン

12

 

 

 

 

ギブソン

12

 

 

 

 

ギブソン

12

 

 

 

 

ギブソン

12

 

 

 

 

ギブソン

12

藤川

13

151

沢村

13

藤川

13

151

フェラー

13

石井一久

13

151

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

 

 

 

 

ギブソン

13

藤川

14

152

江川

14

藤川

14

151

尾崎

14

藤川

14

150

フェラー

14

藤川

14

149

藤本英雄

14

藤川

14

149

 

 

 

藤川

14

148

 

 

 

藤川

14

148

 

 

 

石井一久

14

148

 

 

 

石井一久

14

147

 

 

 

藤川

14

145

 

 

 

堀内

14

144

 

 

 

堀内

14

142

 

 

 

堀内

14

140

 

 

 

堀内

15

140

スタルヒン

15

堀内

15

135

スタルヒン

15

堀内

15

134

 

 

 

高橋一三

15

132

 

 

 

堀内

15

132

 

 

 

堀内

15

131

 

 

 

高橋一三

15

130

 

 

 

堀内

16

126

 

 

 

堀内

16

126

 

 

 

石井一久

17

123

 

 

 

石井一久

17

121

 

 

 

高橋一三

17

120

 

 

 

高橋一三

17

119

 

 

 

高橋一三

17

118

 

 

 

高橋一三

17

118

 

 

 

高橋一三

17

118

 

 

 

高橋一三

17

118

 

 

 

高橋一三

17

117

 

 

 

高橋一三

17

117

 

 

 

高橋一三

17

116

 

 

 

高橋一三

17

116

 

 

 

高橋一三

17

114

 

 

 

石井一久

18

128

 

 

 

高橋一三

18

119

 

 

 

高橋一三

18

118

 

 

 

高橋一三

18

116

 

 

 

高橋一三

18

116

 

 

 

高橋一三

18

114

 

 

 

 

 

 

 

若林

19

高橋一三

21

98

 

 

 

球種のところの[]はファーストボール系、[]はカーブまたはスライダー(速いカーブ)[]はスクリューボールである。

 藤川のは155km/h超の投球を数えれば12コマのものがあったかもしれないが、画像を入手できなかった。沢村は1球のみ、画像が特に悪いので相当甘く数えているような気がする。

 スピードガン以後の投手の13コマは全て150km/h超、14コマは152-140km/hですべてが140km/h超、15コマは140-130km/hで、大体このあたりが現代での速球派ではないだろうか。

 やはりコマ数が少ないのは筆者が世界史上最速投手だと信じるボブ・ギブソンで、スライダーでも13コマ。沢村はむちゃむちゃ甘く数えて13コマ。スタルヒンも相当甘く数えて15コマ。

少なくとも、現代の投手たちのコマ数は思ったよりずっと球速と比例しているから、撮影機器が精密ならば意外に有効な球速推定方法なのかも知れない。

昔の投手たちも、速球派の沢村やスタルヒンと技巧派の若林では全くコマ数が違うから、意外に球速を反映した結果なのかもしれない。

14球:沢村の全力投球画像発見! 2008.8.6

  先日初めて沢村栄治が試合で投げている動画を見ることが出来た。これは既に2000年に特番「20世紀の画像」で紹介されていたキャッチボールの映像と同じときに撮られたもののようである。この映像は昭和10年に長崎で行われたオープン戦での投球を映したものだから、沢村の全盛時代といってよい。一塁側から撮ったものと、バックネット側から撮ったものがある。実際に画像を見たい方は「沢村栄治映像館」から見ることが出来るのでご覧になってほしい。

 さて、この映像を見た感想だが、端的に言って「よくわからない」というのが正直なところである。とにかく画像が遠くて小さい。バックネットからの映像はボールが指先を離れた瞬間からミットに入るまでが捉えられているから、物好きな人はコマ数を数えてもらえばある程度の速度はわかると思うが、何せ撮影機器がゼンマイ仕掛け、悪くすれば手回しだから、誤差を考えると無意味である。

 ただ、次のことは言えると思う。

 まず、バッターが沢村の球に全くついていけていないこと。ボールがミットに入ってから振っている。この時代の打法はバックスイングもフォロースルーもほとんど取らずに上体をスウェーしながら走り打ちする「テニス打法(どんな打法かイメージできない方は「動画野球殿堂」の牧野直隆のバッティングをご覧ください)」だから、打球は遠くに飛ばないが速球には強いはずである。それがこれだけ対応できていないというのは、やはり沢村の球が同世代の人には異次元の速さだったことを物語っている。

 次に、やはり速球投手の投げ方だということである。踏み出した足がボールを放す瞬間に突っ張るのは昔は「スムーズな体重の移動を妨げる悪い癖だ」と連続写真などで解説されていたが、この癖のある速球投手は現在でも多く、以前ほど悪い投げ方だとは言われなくなった。沢村も思い切り放るときにはそうなっていたのかと得心が行った。また、腕をアーム式にぶん回すのは、現在では悪く言われるが、尾崎行雄をはじめ昔の速球派はこれが普通で、球の見えにくさについては不利だが、球速に関しては大きな問題ではない。第一この方が肘を痛めにくくてたくさん投げられる。

 次は足上げの投球やセンターカメラからの映像が見られるのではないかと楽しみにしている。

13球:観客の体感速度は? 2006.5.10

  このHPの読者の方から貴重な情報をいただいた。当時の観客が見た沢村の球の体感速度が感じられるものなので、人名をイニシャルに変える以外は原文のまま紹介したい。

Sと申します。

現在、広島で介護の仕事をしております。

老人ホームの入居者に 野球をずっとしておられ、東京、仙台と住まいを転々とされた85歳のT.Iという方がおられて、野球の話をする機会がありました。

その方は入居施設でも大リーグ、プロ野球のテレビしか観ておられません。

「沢村栄治投手をごらんになられたことはありますか」

との質問をすると、眠たそうにしていた顔が ハッと醒めて青ざめた感じになり、

「何で兄ちゃん、沢村をしっとるんや。そうか本で調べたんか。わしは若い頃から野球をやっとったけえ、巨人に入る前から沢村をしっとる。勿論、球場でもしょっちゅう見かけた。

縄が勢いよく巻き戻るときの音と同じ音を出す球を投げていた。ヒュルンという音をだしてね。スピードは145〜155あたりだろうな。」

160以上でていたという話を皆さんされますが−との質問に対して。

「いやー それはないのう。」

スタルヒンとどっちが速かったですか− との質問に対し

「ありゃロシアの奴じゃろ。まあ 外人じゃけえのー」と返され答えは曖昧。

中京大学 湯浅教授の分析では159.4らしいです− との話に対し。

「ああ、やっぱりのう。」

全盛期の沢村投手をごらんになられた方です。

僕が150は確実に出ていた と感じたのは

「ああ、やっぱりのう」という答えが返ってきたときです。

159キロだったということに対して、まさか と思っていれば

「やっぱり」という答えは返ってきません。

出ていなかったら

「あ? あー そうなんか・・・」というごもった返答になられるはずです。

野球の話をすると 眼の色が変わられて別人になられました。

Tさんは若い頃プロ野球に憧れて野球を続けられた方なので、Sさんも野球好きなら一度お話してみては というホーム長の勧めで お話しました。

では。」

 老人は過去を美化するにしても、美化できる過去を持っている人は幸せである。現在の野球ファンは老人になってから美化できるほど惚れこめる選手を持っているのだろうか。

12球:貴方がいたから今がある 2006.3.21

  遂に、日本が世界の頂点に立った。親善試合ではない。プロ同士の真剣勝負である。

 負け嫌いの米国人からはすでに大会中からいろいろな言い訳が聞こえてきていたが、ちゃんとルールに従って行われた国際試合の結果であるから、いえば言うほどみっともないだけである。メジャー各氏には謙虚になって雪辱を期すべし、といいたい。間違っても大会そのものを抹殺するような愚挙に出ないことを祈る。

 1934年、沢村栄治の日米野球での快投から72年、1936年のプロ野球の創設から70年、1945年の終戦から61年、2006年の今日、もはや貴方たちを直接知る者はほとんどいない。

それでも、沢村栄治さん、あなたがいたからプロ野球はできたのです。

海のものとも山のものともわからないプロ野球に将来に保証された安定を捨てて飛び込んだ選手の皆さん、非国民とののしられながら、終戦の年の正月にさえプロ野球を見に足を運んだ野球を愛する皆さん、あなたたちがいたからプロ野球は続いたのです。

そして、またいつか野球のできる日を信じながら、バットとボールを銃と手榴弾に持ち替えて戦火に斃れていった戦没野球人のみなさん、あなたたちの野球への想いが、戦後の日本野球の繁栄を築いたのです。

あなたたちがいたから、日本野球はこの日を迎えることができました。

本当にありがとう。

11球:2006WBC中国選抜に1934年の日本選抜を見た 2006.3.5

 昨日・一昨日、WBC(世界野球クラッシック)の中国選抜を見ていて、昭和9年の日本選抜もこうだったのだろうな、という感想を持った。

 投手の球はそこそこ速い。びっくりするほどではないが。コントロールもそこそこ。ストライクが入らなくて自滅するほどではない。だが、球の出所が見えやすい。速球と変化球でフォームが違うので素人目にも球種がわかってしまう。

 なにより要所要所で足を引っ張る守備陣。タイムリーエラーともたつく連係プレー。2試合ともよく10点台の失点で収まったな、というのが正直な感想である。

 とにかく全体としての野球の完成度が日本選抜とは全く違う。日本チームがプロ選抜という形である限り、しばらく中国チームの勝利はないだろう。

 しかし、その一方で、中国選抜個々人の身体能力の高さはテレビでも伝わってきた。おそらく高校生くらいから日本に来て緻密な野球をしっかり学べば「モノになる」選手は大勢いる。

 ベーブルースたちの眼にも日本選抜の各選手、特に沢村や伊達正男・田部武雄らはこう映っていたのではないだろうか。「米国に連れて帰って鍛えればモノになる」と。

 日本人選手が米国で活躍できるようになるまでは60年の歳月が必要だったが、情報が瞬時に世界を駆け巡る現在、中国野球が日本野球に追いついてくるのはそう遠くない将来かもしれない。

 今回のWBC予選の点差だけを見て中国野球を侮るのはやめたほうがいい。画像は沢村を紹介する日米野球のパンフレット。

説明: 9年全日本03

10球:変わったのは投手ではなく打者である 2005.5.6

 先日本当に久しぶりにプロ野球を球場まで見に行った。というのは、ホークスとカープの二軍戦の無料チケットが手に入ったからだ。プロを身近で見るのはかれこれ20年振りだろうか。

 最近仕事が忙しくてプレーの方もさっぱりやっていないし、目がすっかり野球から離れているので、投球や打球がさぞ速く感じるだろうと思っていた。テレビではほとんど毎日野球を見ているのだが、実際に見るのとは全く違うのは分っている。

 ところが、結論から言えば、ネット裏で見る投手の球の体感速度は、20年前と特別変わらないのである。もちろん、昔は速い投手もいたがハエの止まるような球の投手もいた。それからするとほとんどの投手がそこそこの球を投げている。それでも、これはびっくりするほど速いな、という投手はいなかった。地元の球場にはスピードガン表示がないが、おそらく130km/h後半から140km/h中盤だろう。

それどころか、一世を風靡したあの投手やあの投手が知らないうちに二軍にいて、おそらく故障のためだろう、ブルペンで昔どおりのフォームで投げてはいるのだが、それこそハエの止まるような球で、もちろん登板機会もないのが気の毒だった。

 二軍の投手のコントロールが悪いのも昔どおりで、コーナーに決まらずにカウントを悪くしては甘いところに加減した球を通して打たれていた。

 全く違ったのは打者である。昔の二軍の打者は外角低めに140km/h台のスピードボールが来たら、空振りするかせいぜいファールを打つのが関の山だった気がする。ところが、これが実にうまくおっつけて右に強打するのだ。また、外角に小さなカーブ(スライダー?) が来ても、よほど際どいコースを通さなければ、ストライクだったらうまく右に打つし、ボールなら見向きもしない。

 これでは投手もたまったものではない。外角低めは投手の生命線である。そこを二軍の選手が簡単に打つのだから、半端な投手の防御率は簡単に5点台6点台になるだろう。

 投手受難時代に生れた投手たちに幸あれ!

 ただし、二軍だからか、打者の意識が最初から外角低めに行ってしまっていて、体勢もそうなっている。だから内角を打つのは恐ろしく下手である。それにしても、まただんだんストライクゾーンが低くなってきているような気がするのだが

9球:昔の投手の球速を分析してみたら…2005.1.4

 帰省して地元の本屋で面白い本を見つけた。青春出版社『ホームランはなぜ打てるのか』。著者は湯浅景元氏といって、中京大学体育学部の教授。この中に、テレビ局に依頼して入手した歴代投手の映像を分析して球速を求めた結果が載っている。小松以外は全盛期がスピードガン以前の投手たちなので大変興味深い。以下に引用する。

投手

球速(時速km/h

沢村栄治

160.4

尾崎行雄

160.2

村山実

158.8

江夏豊

158.8

スタルヒン

157.2

山口高志

155.7

小松辰夫

154.5

金田正一

154.3

村田兆治

152.2

江川卓

151.2

杉浦忠志

150.7

外木場義郎

150.0

稲尾和久

144.4

 分析方法について述べられていないのは残念だが、小松(星陵高-ドラゴンズ)や江川(作新学院高-法政大-タイガース-ジャイアンツ)の球速がスピードガンの数値(確か小松153km/hと江川150km/hが最速だったと記憶している)に近いところから考えるとある程度参考にできる値ではないだろうか。しかし、分析した画像が最速値を出したときのものとは限らないから、全体に少し甘め(+5km/hくらい)という気がする。

また、沢村については「キャッチボールをしているときの画像から推定した値なので正確とはいいがたい。彼の球速はその点を考慮して見てほしい。」と著者自身が断っているので、「沢村は尾崎(浪華商高-フライヤーズ他)や江夏(大阪学院高-タイガース他)より速かった」という証言に基づいた体感値と見た方がいいだろう。

 驚きなのはスタルヒン(旭川中-ジャイアンツ他)と金田(享栄商高-スワローズ他)で、4-5km/h差し引いて考えたとしても昭和10年代と20年代に150km/h前後を放っていたことになる。当時の粗末なキャッチャーミット、ヘルメットもない、マシンで速球を見慣れていない、しかも二人とも若いときは超ノーコン。キャッチャーもバッターも本当に怖かっただろう。金田400勝、スタルヒンも戦争がなければ勝ち星は400近かったはずだ。やはり勝ち星は偶然の産物ではない。350勝の米田哲也(境高-ブレーブス)も玄人筋では最速の呼び声が高いので彼の全盛時代についても分析して欲しかった。

 尾崎・村山(住友工高-関西大-タイガース)・江夏については映像を見たことがあるのでこの数値にも少しも驚かないが、筆者の体感としてはやはり−5km/hというところ。外木場(出水高-電電九州-カープ)・村田(福山電波高-オリオンズ)は実際に見たことがあるが、全盛期を過ぎていたのでなんともいえない。

 山口・小松・江川は筆者とほぼ同年代に属するし、スピードガンの数値も残っているが、筆者の体感は江川(ただし高校時代)山口小松である。

 もう一つの驚きは杉浦(挙母高-立教大-ホークス他)で、下手投げで150km/hというのは果たしてありうるのだろうか。387敗は伊達じゃないというところだが、やはり-5km/hか。

 稲尾はこの中では唯一140km/h台だが、コントロールと投球術、球離れの遅いフォームで、当時の打者には150km/h超と感じただろう。

 何にせよ、湯浅センセイ、面白い分析をありがとうございます。

 

8球:やっぱり昔の人はエラかった。2004.8.28

 アテネオリンピックは日本選手のメダルラッシュに沸いたが、ひとり取り残された感があったのが陸上のトラック競技だった。たとえば100m1次予選の記録を見てみると、期待の末続慎吾が1027、土江寛裕が1037、朝原宣治が1033。決勝はいつものように全員黒人で白人も黄色人種も蚊帳の外。

 土江や朝原の記録は72年前の1932年、「暁の超特急」吉岡隆嘉の出した103にも及ばない。72年前、ですよ。手動計測は機械計測より0.何秒か早く計測されるらしいが、それにしても、軟弱な土のグラウンド・粗末なスパイク・「貧弱な」体で、最高のグラウンドと用具・スポーツ理論・「筋肉質の」体で走る末続とほとんど同タイムというのがすごい。

 末続はいずれ100m 9秒台を出すだろうが、吉岡の偉大さは少しも減じるところがない。

 吉岡は記録を計測されていてよかった。そうでなければ、いくら同時代の人間が「吉岡は絶対10秒台の前半で走っていた」と力説しても、「スポーツ生理学の専門家」とやらが現れて「せいぜい11秒だろう」「あんな貧弱な体で10秒台の前半のはずがない」「あの走り方で11秒は切れない」「昔は美化されるから」「ジジイの妄想だ」と言われていたに違いない。

 それとも、「昔のストップウォッチは誤差がひどいから」と記録そのものを否定するのだろうか。

 いや、「傑出する」ことの意味を理解できない者たちがいかに否定しようとしても、72年前、100mを確かに103で走った日本人がいたのだ。

 このことを球技にそのまま当てはめようとは思わない。女子バレーの技術など20年前と比べてさえ既に当時の男子に匹敵する。

 しかし、天才が現れて初めて新しい時代が切り開かれる競技も決して少なくないことを「スポーツ進歩史観」の方々に今一度力説しておきたい。

 そして沢村はそうした天才の一人なのだ。

画像は103を出した時の吉岡隆嘉。

説明: 吉岡隆嘉01

7球:体格=球速でないことを証明した五十嵐亮太。2004.7.10

 先日スワローズの五十嵐亮太がスピードガン計測による球速の日本タイ記録(過去オリオンズ伊良部秀樹・ブルーウェーブ山口和男が記録)158km/hを出した。五十嵐というと現在の投手としては小柄だが筋肉質だから身長・体重は182cm90kgくらいあるのかと勝手に思っていたら、選手名鑑を見てみて驚いた。178cm74kgしかないのだ。

これって平松政次(元ホエールズ):176cm.74kg、堀内恒夫(元ジャイアンツ):176cm.76kgとほとんど変わらない。堀内なんか今ジャイアンツの監督をしていて、選手に囲まれると随分貧弱に見えて、球速を計測したとき(スピードガンではない)159km/hを出したなどという話も眉唾だなと思っていたのだが、やはり球速は体格ではないらしい。

ちなみに沢村は身長174cm体重71kgで、これも五十嵐と大して変わらない。

筋線維は鍛えると肥大するというのが医学の教科書的な見解だが、身体を鍛えぬいた若い人というのは意外に細く、中年が近づくにつれてゴツクなってくる。これは余計な脂肪などが身についてくるからだ。

ライアン(元エンゼルスほか)やクレメンスだって若いときは160km/h超の剛速球が投げられるとは思えないくらい細かった。

今年の五十嵐はスピードガンの表示にこだわるのをやめ、打者が打ちにくい球を投げることを心がけているそうだ。彼のこうした姿勢がかえって球速を増しているのだろう。

なんにせよ、野球は体格でやるもの、という最近の誤った風潮に一石を投じた五十嵐よ、がんばれ!

6球:昭和7年の野球未来予言。2003.6.10

 第5球で引用した飛田穂洲『熱球三十年』に現在の野球を予言したような記述を見つけた。昭和7年の時点で過去の野球と当時の野球を比較したものだが、現在と昭和9年の比較にもそのまま使えそうなので紹介したい。

-昔のベースボールから、今日のそれに及ぶなら、まことに隔世の感を覚える。技術、頭脳は申すまでもなく、用具、グラウンド、野球熱のいかなる点からも比較にならない。だから明治時代や大正初期にあって、観衆五万を収容しうる神宮球場の出現を予期したであろうか。

 明治四十一年秋、シャトルのワシントン大学ティームを招聘するため、戸塚グラウンドに木柵をめぐらし、一塁側に約四、五百人を入れうるベンチを据えつけ、三塁側の土手に段々をつくって見物に便ならしめた。これを一見したときの野球関係者は、いずれも賛美の声を惜しまず、早稲田選手の多幸なるをうらやんだものであり、われわれ自身また、このグラウンドを持つことを、大いに得意としたものであった。しかも今日の完備したグラウンドに比べるなら、小屋掛けを歌舞伎座の舞台のごとく考えたたぐいにほかならない。

 このみすぼらしいグラウンドで、粗悪きわまる器具を用い、研究材料もコーチもなく、むしろ世間の迫害に耐えつつ選手生活をしたのであるから、現在のそれとはすでに境遇そのものも違っていた。用具のごとき、ミットからグラブに移って、結構ベースボールの体をなしてからでも、その材料は劣悪であり、型は小さく、記念に保存してあるそれを引き出して見るたび、よくこれでボールがつかめたものと感心されるくらいである。

 明治時代は多く本郷美満津屋のボールを日本製品中の白眉として、一高はじめ各野球部が愛用したものであった。それが牛皮のセンター・ラバーで規則どおりにできているものなどは、容易に見あたらぬというしろものが多かった。

 大学で使用するものは特に注意され、上等の職人、それも日本に二人か三人しかいないという名人に類する連中で、全部手づくりの腕を競ったものであるにもかかわらず、でき上がったものは如上の製品で、材料が悪いうえに研究も不足しているから、一個一個目方も大きさも違っているという始末であった。それをまた、なまかわきでつくったところの、バランスの悪いバットで打つのだから、ミートがよく正確な当たりをしても、伸びのきくはずがない。カーンという冴えはなく、ポクリと濁った音で落下してしまう。

(中略)

 旧式のボールを打たせたら、いかな田中勝男(筆者注:第一神港商時代甲子園でベーブルース賞を受賞し、以後「ベーブ田中」といわれた強打者。早稲田大の不動の4番打者として活躍した)でも、宮武三郎(高松商時代好投と強打で甲子園優勝。慶応大で神宮球場第1号本塁打、「相撲場ホームラン」といわれた150m級本塁打を放ち、通算7本塁打は長嶋茂雄(立教大)に破られるまで長らく東京六大学リーグ記録だった)でも、七十間(一二七・四メートル)の遠打記録などとうていつくれなかったに相違ない。

 一から万事、今日のそれとは何一つ問題にならない。現選手のごとく、コーチに手をとって教えられるようなこともなく、自己流の研究に没頭するほかなかった。だから技術、頭脳という点も、用具のそれのごとく、大々的割引をして考えねばならぬ。ただ、その不自由の中にあっては、思ったよりもあるいはじょうずな野球をしていたかもしれない。かく技倆を比較すれば問題にならぬ昔の選手にも、今日から見て、多くとるべきもののあったことは争われない。

 明治から大正初期に現れた選手をもって、現在選手よりも優秀であるかのごとく考えるものがあれば、勘違いしているものというほかはないが、精神的見地から旧時代選手というものには、いうにいわれぬ風格があった。

(中略)

 今の選手は昔の選手よりも技術上すぐれていることをいったが、精神的に劣っているため、万事完備されている割には、感心すべきものが少ない。ある場合は神宮球場で行われるにはもったいないと思われるような試合のあることをも否まない。もっと熱のある試合を、と思うことがたびたびである。

 そこへいくと、昔の選手には小手先の器用さはなくとも、真剣そのものであった。命がけの試合や練習をやった。日本の野球が今日のように熱狂されているのは、みんな昔の選手がよい種をまいたからで、虐待されながら、土台をしっかりと築き上げたその努力を、感謝せねばならぬと思う。

 しかも、古きは忘れられ、新しきもののみが謳歌される。それに不平をいうべき筋合いではなくても、ときどき過去の名選手を語ることは、心の慰めにもなろう。-

 2003年の野球選手たちは、彼らが「昔」になっても、穂洲時代の選手や沢村のように同時代の人間に熱く語ってもらえるのだろうか。

 画像は宮武三郎。

説明: 宮武三郎01

5球:この環境で160km/hは厳しいと思うぞ?2003.5.19

 若い人を中心に「沢村160km/h説」が結構あるようだ。それはそれで沢村ファンの筆者には嬉しいことである。しかし、現在の環境をそのまま戦前に当てはめて考えているような気がするので、当時の投手を取り巻く環境を端的に表している一文を紹介したい。書名は『熱球三十年』、著者は学生野球の父と言われた飛田穂洲。

 「この間谷口はベンチに帰るたび、私に苦痛を訴えるのであったが、有田も使えぬこの場合どうすることもできない。だましたり、すかしたり、本当に少年投手を使うようにしてやっと七回まで無理を押してきた。しかるに第七回にいたって谷口はベンチから動かない。

 『もう、とても投げられません。かんべんしてください』

 『だってあと二回きりじゃないか。だれも代わるものがないのだから、がまんして投げてくれ』

 『とてもだめなんです』

 ベンチには有田と、永野と中村とがいて、安部先生は中央に黙然としておられる。私の血はすでに逆上していた。

 『やれ、肩が抜けても本望じゃないか。君は本当の早稲田野球部精神というものをまだ知っていない。死ぬまでやるのが早稲田の選手なんだ。アメリカへ何しに来たのだ。今日すぐ日本へ帰っちまえ』

 『チョッピーちゃん、もうほんの少しだ、やってくれ、な』

 永野重次郎がベンチにうつぶせになっている谷口の肩をかるく押さえながら、なだめている。味方はすでにシートについている。谷口はコーチの怒声と、僚友の暖かい言葉に動かされたらしく、顔を上げて立ち上がった。その目には涙が光っていた。

 『やるか』

 『やります。キット』

 こういいすてて一歩二歩プレートの方に五郎が歩き出したせつな、

 『飛田君!』

厳然たる声が私の後方に起こった。安部先生である。

『投げられぬというものをむりやり投げさせようという法がありますか』

『でも』

『でも、ではありません他の人を投手になさい』

『ハッ』」

補足すると、場面は大正10年の早稲田大の米国遠征。投手陣が船旅の栄養障害で総崩れとなり、谷口一人が30連投した後、強敵シカゴ大と対戦しているところである。飛田穂洲は早稲田大のコーチ、「安部先生」は同志社出身の敬虔なキリスト者で野球部長の安部磯雄、二人とも怒涛のような時代の流れの中でも常に早大野球部の味方だった人。そして、「谷口」は当時古今無双の左投手といわれ、後都市対抗でも活躍する谷口(岩瀬)五郎である。

安部磯雄がいなければ谷口の肩はどうなっていただろうか。当時日本最高の野球技術を誇った早稲田大にしてこうである。筆者はこんな目にあった投手がその後140km/hでさえ出せたとは思えない。たとえデビュー時には150km/h出せる素質があったとしても、だ。

沢村が投手デビューしたのは昭和4年(明倫小高等科1年)だからこの一文の9年後だが、状況は大して変わっていなかっただろう。過酷な野球環境でも潰れなかった沢村の肩も、結局戦争で潰れてしまった。

当時の投手の球速に関して、「140km/h?今なら並みの投手じゃん。」などと簡単に言う人がいるが、歴史を知らないか、想像力が貧困なのか、その両方か、だろう。「沢村160km/h説」はこういう人との論争の中で出てきたのだろうが、「贔屓の引き倒し」という気がする。

画像は谷口五郎。

説明: 谷口五郎01

4球:150km/h出ていなかった?日米戦の沢村2002.12.3

先日の日米野球を見ていて感じたことをもう一つ。少なくとも日米野球での沢村は彼の人生最高の球は投げていなかったのではないかということだ。スピードガンに喩えると150km/h出ていなかっただろう。その根拠は、1.昭和9年は沢村の全盛期ではない、2.日米野球はオフシーズンに行われる、3.チーム力の差で本来の力を発揮できなかった、4.当時の野球事情、である。

まず、1.昭和9年は沢村の全盛期ではない、について。日米戦のとき沢村はわずか17歳。年齢にしては速い球を投げていただろうが、発達の加速化が進んだ現代の投手たちでも球速の全盛期は20代前半がほとんどである。また、「足上げ」が完成したのは第一次米国遠征のとき、という説もあり、まだ十分にフォームが固まっていない時期だったろう。事実実績にも非常にムラがある。

2.日米野球はオフシーズンに行われる、について。現在の投手たちの日米野球の球速を見ると、シーズン中より510km遅い。これはシーズンが終了してから長い投手では1ケ月以上全力投球をしていないことが最大の原因だろう。沢村は夏の甲子園から日米野球まで3ケ月近く公式戦で投げていない。もちろん日米戦前には2週間ほど合宿が行われ、全日本の打者相手のレギュラーバッティングに投げたりしているから随分感覚は戻ってきていただろうが、京都商退学前後のゴタゴタ、さらに上京寸前に関西地方を襲った室戸台風など、野球に専念できない要素が多すぎる。

3.チーム力の差で本来の力を発揮できなかった、について。第3球でも書いたが、沢村のバックは、守備でも打撃でも全米軍にはとうてい太刀打ちできるようなレベルではなかった。ランナーを出すたびにバント・盗塁・エンドランに脅かされただろうし、本当に全力で投げて相手も全力で振ってきたときに「名手」久慈がちゃんとキャッチできたかもわからない。こうした状況の中で球速だけにこだわる投球ができたかどうか。

4.当時の野球事情、について。当時は試合前や試合後には肩を休めたほうが良いという考えさえない時代で、たくさん投げ込めば投げ込むほど球威が増す、と考えられていた時代である。「走りこみ」を沢村はゴーメッツ(一説にはホワイトヒル)に教わったという(NHK番組『その時歴史が動いた』)。2.のオフシーズンであることに加えて、コンディショニングという点でも150km/h以上の球速を出すにはあまりにも不利である。

筆者はこう考えている。沢村が150km/h以上出したとすれば、その可能性があるのは、この時期のほかにあるまいと。それは。第2回米国遠征後のゴタゴタと三宅監督の辞任によって「やる気をなくしていた」時期(肩を十分休められたろう)の後、茂林寺の猛特訓(野手陣の猛練習を見て「沢村は黙って走り出した」という伝承が当時の最先端トレーニングとして象徴的である)を経て、(当時としては)適当な登板間隔を空けて登板し、その間のコンディショニングも怠らなかった時期。つまり、昭和11年の第1回職業野球リーグ戦の時期だと。

画像は日米戦の際の沢村。

説明: 9年全日本

3球:もう「見たこともない球」はありえない 2002.11.26

先日の日米野球は全日本3勝の後全米4勝という、実にスリリングかつ悔しい結果で幕を閉じた。それにしても、全日本の打棒が目立った。以前は投手はそこそこに抑えていても打者が打てずにそのうち投手も力尽きるという負け方が多かったことを考えれば、日本の打者のレベルも随分上がったものだ。オフシーズンでも150km/hを超えている米国の投手陣にも驚いたのだが、その速球を苦もなく打ち返す日本の打者にも正直驚いた。

考えてみれば、現代は「見たこともない速い球」を投げる投手は米国にさえいない。かつて、グローブ(アスレチックス:昭和6年来日)のスモーク・ボールやゴーメッツ(ヤンキース:昭和9年来日)の弾丸球は、やはりオフシーズンでも150km/hを超えていただろうが、それは日本選手にはまさに未知の球だったろう。当時は人間が投げられない球は見ることができない時代である。日本の打者は日本の投手が投げられる球速の球しか見ることができない。地上の移動物体としては人間が投げる球が最速だったのだ。だが、現代は日本の打者でも150160、あるいは170km/hを超える球でさえマシンによって見ることが出来る。米国の速球派の球は決して未知の球ではない。そういう意味でも彼我の差は縮まっている。

昭和9年から11年ごろまでの日本の打者たちは沢村と対戦しない限り日本一速い球を見ることはできなかった。だから彼らが全盛期の沢村にひねられたのは当然だったし、沢村より速い米国の速球派にかすりもしなかったのも当然だろう。

だが、現代の打者たちよりも彼らのほうがずっと幸せだったろう。機械で作り出せる球を打てないのは自分の技術の不足に過ぎないが、見たこともない球をうてないのは恥でもなんでもないからだ。

沢村と対戦した打者たちは、ヒットを打てばもちろんのこと、一球もかすらずに三振してさえ、それを50年経ち60年経ちしても、まるで昨日のことのように喜々として語った。それを受けた捕手も。折れてあっちの方向を向いた左手の指を誇った。観客ですら、地方の巡業でたった一試合見た沢村の速球を「人間が投げているとは思えなかった」と口癖のように語った。さすがにそれらの語り部も少なくなってきたが。それでも彼らは、命尽きるまで、野球の話になれば沢村の球の速さを語り続けるだろう。「あんな球は見たことがなかった。」と。

沢村の前にも後にもこんな投手がいただろうか。これほどまでに同時代の野球人の胸にその「球速」が刻まれている投手が。やはり沢村は「史上最速」なのである。

画像は高小・中学でバッテリーを組んだ山口千万石。折れ曲がった左手の指に注目。

説明: 山口千万石01

2球:どこまで昔でどこから今か?2002.10.28

 若い野球選手やファンから聞く言葉に、「昔はレベルが低かったからあれだけの活躍ができた」というものがある。これは一面の真理だと思うが、昔とは一体どこまでの時代を指しているのだろうか?それがどうも分からない。

10年ひと昔というから10年前か?確かに10年経てばいろいろな部分で進歩するだろうからそれでもいいのかもしれない。

だが、ちょっと考えてみてほしい。10年といえば当時ルーキーだった投手がまだ現役でやっている年月である。たとえば今年(2002年)ドジャースで14勝を挙げた石井和久投手は10年前(1992年)がルーキーイヤーで、0勝、防御率4.18の成績である。レベルがずっと上がった現在の野球、しかもメジャーで14勝もできる投手が、「レベルの低い昔の野球」で0勝、しかも石井は2年目3勝、3年目にやっと7勝するていたらくである。

「若すぎたのさ」というのなら、今年12勝を挙げて防御率1位のタイトルも獲ったジャイアンツの桑田真澄投手の10年前はどうか。1014敗、防御率4.41で現在よりずっと成績が悪い。前年は16勝だが、翌年は8勝である。「レベルの低い昔の野球」でやっとこの程度である。桑田の全盛期が10年以上前にあったことは歴史を知っている者なら誰の目にも明らかだ。その「10年前から来た男」に抑えられてしまう今の打者とは?防御率で負ける今の投手とは?10年前を「レベルの低い昔」と見なすとちょっとみっともないことになりはしないか?

では20年前(1982年)なら昔か?投手の筋トレもまだ腹筋・背筋や腕立て伏せくらいしかなかった時代である。こんな時代なら江川卓(作新学院高-タイガース-ジャイアンツ)が19勝(前年は20勝)もできたのはむべなるかなだ。江川伝説なんてオヤジの妄想だ!

だが、ちょっと待ってほしい。この20年前の亡霊(20年前に全盛期があった投手という意味。たまに冗談のわからない人がいるので念のため)は、桑田真澄が2勝しかできなかったルーキーイヤー(1986年)に16勝もしているのだ。そして桑田が15勝を挙げた1987年に13勝を挙げたまま引退しているのだ。1982年頃に全盛期のあった男が、2002年の防御率1位投手と比肩する勝ち星を挙げた年があったということをどう説明すればよいのだろうか?「20年前にいた男(江川卓のこと)」と同レベルの勝ち星しか挙げられなかった男(桑田真澄のこと)に抑えられてしまう今の打者とは?防御率で負ける今の投手とは?20年前を「レベルの低い昔」と見なすとちょっとみっともないことになりはしないか?

では30年前(1972年)なら昔か?なにせ「投手は泳いではいけない」などというたわけた迷信のあった時代だ。だが、待ちなされ。1972年といえば、堀内恒夫(甲府商高-ジャイアンツ)の全盛時代、26勝を挙げているのだ。そしてこの堀内は江川入団の1年前までは毎年10勝以上挙げていたのだ(江川入団の年は4勝。翌年引退)。1年やそこらで球界全体のレベルが上がるということもあるまい。ということは、「30年前にいた男(堀内恒夫)」と同レベルの勝ち星しか挙げられなかった男(江川卓)と同レベルの勝ち星しか挙げられなかった男(桑田真澄)に抑えられてしまう今の打者とは?以下同文。

では、40年前(1962年)なら昔か?なにせ投手がロッキングモーションなる珍妙な儀式をワインドアップの前にしていた時代だ。まてまてい!1962年といえば、城之内邦夫(佐倉一高-日本ビール-ジャイアンツ-バファローズ)云々。24勝云々。1966年堀内16勝城之内21勝云々。以下同文。

では、50年前(1952年)云々。別所毅彦(滝川中-ホークス-ジャイアンツ)33勝云々。1957年別所14勝藤田元司(西条高-慶応大-日本石油-ジャイアンツ)17勝云々。1962年藤田13勝城之内24勝云々。以下同文。

まだ沢村まで来ない。60年前(1942年)。藤本英雄(下関商-明治大-ジャイアンツ-ドラゴンズ-ジャイアンツ)100敗。別所0勝。スタルヒン26勝。以下同文。

65年前(1937年)。沢村栄治は33勝を挙げた。スタルヒンはこの年28勝。

つまり、2002年の打者たちは、沢村より少ない勝ち星しか挙げられなかったスタルヒンより少ない勝ち星しか挙げられなかった藤本英雄より少ない勝ち星しか挙げられなかった別所毅彦より少ない勝ち星しか挙げられなかった藤田元司と同等の勝ち星しか挙げられなかった城之内より少ない勝ち星しか挙げられなかった堀内恒夫と同等の勝ち星しか挙げられなかった江川卓と同等の勝ち星しか挙げられなかった桑田真澄に抑えられ、投手たちは防御率で上回ることができなかったのだ。

これは「ネズミの婿とりの論理」といって半分以上冗談だ。しかし、選手の口から「昔の野球だから」という言葉が出るのはあまり愉快なことではない。何か野球の技術が自然に進歩するのが当たり前のような口調だからだ。「君たちが精進工夫して進歩させるんだよ」と言いたい。

「真ん中に投げても打たれない速球を投げたい」と公言し、当時としては最新の理論にしたがって懸命に努力した沢村栄治の魂は決して今の投手たちにとっても「昔」ではないと思うのだ。

画像は第2回米国遠征の際の沢村。

説明: 11年第2回米国遠征

1球:なぜスピードガンにこだわるのか?2002.10.16

 沢村の球速を語るとき、「160km/h出ていた」「少なくとも150km/hは出ていた」「せいぜい140km/h台」「130km/h台だろう」などと、球速を推測しての毀誉褒貶が目に付く。こうした角度からみた場合の筆者の見解はすでに「一回表:沢村栄治の球速は?」で明らかにした。それは「沢村の速球が150km/h以上出ていても不思議ではない」というものである。

 だが、どうも最近のプロ野球の速球派投手のインタビューを聞いていると不安を感じることがあるので、それについて述べたい。よく聞く答えが「将来は160km/hを出したい」というものだからだ。これは「スピードガン」と呼ばれている機械に自分の速球の球速を測定させた数字を「160km/h」より高いものにしたいということらしい。

 筆者はこの答えに、現在の投手たちは投手としての本能が薄れつつあるのではないかと思うのだ。投手の本能とは、「自分の投げた球を打者に打たれたくない」ということだ。この本能に基づいて、投手は自分のなしうる最大限の努力をする。ある者は自分の投げうる最も速い球で打者を牛耳ろうとするし、ある者は自分の投げうる極限のコントロールを使用して打者を牛耳ろうとする。またある者は変化球の曲がりを鋭くするだろうし、あるものは打ち気を逸らそうとするだろう。またある者は「気合」を、またある者はワセリンを使って打者を討ち取ろうとするだろう。

 スピードガンが問題になるのはこれらの投手たちのうち、球の速さで打者を制圧せんとする者たちだろう。沢村をはじめ、速球を武器とした者たちは、「打者に打たれないほど速い速球を投げる」ことに身を粉にしてきた。それはあくまでも「打者に打たれたくない」からであって、「××km/hを出したい」というものではなかったはずだ。

スピードガンが登場して小松辰雄(星陵高-ドラゴンズ)が当時の投手たちの中で「最速(150km/h)」であることがわかっても、投手たちの目標は「小松より速い値をスピードガンで出したい」ではなかった。

なぜなら、当時は、第一に、平松政次(岡山東商-日本石油-ホエールズ)や松岡弘(倉敷商-三菱重工三原-アトムズ・スワローズ)、鈴木啓示(育英高-バファローズ)など(まだまだ多くの投手がそうだったが)、明らかに全盛期を過ぎたと思われる速球派投手が、ドップラー効果を利用した速度測定器では小松と比較して誤差の範囲である140km/h後半の球速を出していて、小松が決して「史上最速の投手」でないことは明白だった。

第二に、スピードガン表示では決して小松を超えることがなかった江川卓(作新学院高-タイガース-ジャイアンツ)の速球が伝説となっていったことでもわかるように、「スピードガンが表示する速度は必ずしも対戦相手が感じる速度とは同じでない」ということが常識だったのだ。これは当時の野球観戦者が今と違って「単に見るだけ」という人間がずっと少なく、ほとんどが何らかの形で(それが草野球にせよ)野球の実体験があったということと無縁ではなかろう。

街の空き地が潰されて野球体験のない野球観戦者が増え、小松や江川以後に登場する投手たちの球速の全てがテレビの画面の隅に表示されるようになると、「打者が打てたか打てなかったか」「自分が肉眼で見てどんな球筋だったか」は問題にされなくなり、球速表示が何km/hだったかが視聴者の最大の関心事になった。それとともにスピードガン以前の投手たちの球の速さは「ジジイの妄想」になっていった。

このようなファン心理の変化は投手たちの心理にも微妙な影を落としていったように思う。もちろん彼らは「打者に打たれなかった」ことにより生活できるわけだから、最大の関心事はそのことだと思うのだが、「何km/h出たか」という価値観が次第に彼らの中で大きくなっているように思うのだ。

打者にファールを打たれた伊良部秀樹(尽誠学園高-オリオンズ・マリーンズ-ヤンキース他)の球速が日本記録とされたり、寺原隼人(日南学園高-ホークス)の外角低目のクソボールが甲子園大会最速とされたりするのもこうした心理に拍車を掛けるのだろう。

沢村栄治の球速は?ド真ん中に来ても打者が打てない球速だったのだ。現在の投手たちにも158km/hを計測して打たれる球でなく、球速にかかわらずド真ん中に来て打者が打てない球を目指してほしい。

画像はドップラー。

説明: ドップラー

 

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