特別展示1

2003.3.30-我々は「神風」でも「わだつみ」でもなく「サワムラ」なのだ-

 米国のイラク攻撃が始まった。この戦争は間違いなく「米国の圧勝」「イラクの敗北」で終わるだろう。もしそうでなくても戦後の米国の宣伝でそうであったと歴史化されるだろう。60年前の日米戦争がそうだったように。そして、敗戦国の軍人はもちろん、民間人にも多数の犠牲者が出るだろう。そして、戦が「勝ち」だろうが「負け」だろうが、自分の家族や恋人や友人・知人が犠牲になるのを間近で見た若者たちは、自分の命も顧みず、「敵」に対して勇敢に戦うだろう。そして、イラクの人々はそれを「崇高」だと感じるだろう。日本の神風特別攻撃隊を日本人がそう感じたように。占領軍のどれほどの悪宣伝にさらされたとしても、敗戦国民に後世まで語り継がれるだろう。

戦後60年近く経ったせいか、日本人、特に戦争経験のない人々(私も含めて)が戦争を語るとき、もっとも象徴的である特攻隊のみが引き合いに出されることが多いように思う。いわく、「自分が特攻を迫られたとしたら『行っただろう』『行かなかっただろう』」。

だが、我々がもし当時に生まれたとしたら、まずほとんどの人が特攻隊に志願する立場ですらありえないだろう。

飛行機乗りというのは当時は現代の東大生に匹敵するエリートだったことをご存知だろうか。飛行機と言うのは今も昔も兵器の中で最も高価なものの一つなのである。戦意のほかに頭脳・体力・精神力の三拍子が揃っていない人物にそんな高価な兵器を与えたりするほど軍は甘くない。特攻で亡くなった人は率からいえばものすごい戦死率だが、数からすれば7,000人くらいなのである。日本の全戦死者3,100,000人と比べてみればよくわかる。実際、職業野球の戦死者の中で特攻死は名古屋軍の石丸進一・朝日軍の渡辺靜ただ二人だ。

これは「きけわだつみのこえ」に象徴される学徒兵についても同様で、当時「学徒」である、つまり大学に進学できる若者は同世代の10人に1人もいなかったのである(1930年代で5%程度)。そして、大学在籍者には2年の徴兵猶予があり、また、入隊してからも幹部候補生として短期間で将校となることが保証されていたのである。これは現場の士官の損耗率が兵卒より高いということが背景になってはいるが。

では、なぜ、現在の日本人(特に若者)は戦争といえば特攻隊や学徒兵を引き合いに出すのだろうか。

それは第一に、特攻隊や学徒兵、またはその家族・友人、あるいは彼らのことを語り継ぎたいと思っている人たちは、自らの悲劇を言葉にでき、後世に伝えられるだけの知性と教養と社会的地位、あるいは経済力を持ち得る人間たちだったからである。彼等、または彼等の同輩・家族・親しい人が社会に発信した情報は膨大な量に上る。さらに彼等は、(より多くその特権的な地位により)「侵略」よりは「祖国防衛」に関わった人たちであり、戦場の最もエゲツナイ部分、略奪や強姦や虐殺とは一定の距離をとり得る人が多かったからである。彼等は「戦争に反対だが」「家族や恋人を守るために」戦うと自覚できる人々であった。

彼等は現在の「(筆者も含めて)戦争を知らない」人間たちに多くの情報を与えたし、また、彼等のメッセージも(反戦の立場をとるにせよ、戦争をやむをえなかったとする立場にせよ)わかりやすく潔いものであった。

だが、戦前の日本人の大部分は、こうした、すっきりした立場に立てる人たちではなかった。

かれらは多くが農民、または都市の「細民」(零細の商工業者)、あるいは大中小の工場に勤める労働者だった。かれらは極めて脆弱な経済基盤の上で生活しており、男の子を「丁稚」奉公に出したり、女の子を「子守」に出すほか、いざとなれば子供を僅かの金で売り飛ばすこともいとわない人々であった。軍隊に志願するのは過酷な貧困から逃れるためであり、軍隊に入って初めて「銀シャリ(白米)」を食べることができた人間が大勢いた。

沢村もまた都市の「細民」の息子であった。「将来は店員になって両親を楽にする」のが夢だったのである。

かれらはほとんどが小学校尋常科あるいは高等科で学歴を終え(1930年の中等学校進学率は18%程度)、徴兵の猶予もなく、20歳になれば直ちに徴兵され、一兵卒として戦場に送られた。満期になって帰還しても、何度でも引っ張られた。そして、最高に出世しても下士官の一番上の階級である曹長(例外的に准尉)であり、少尉以上の将校には決してなることがなかった。

沢村もまた商業学校(中等学校扱い)中退であり、高等小学校も中退しているから、厳密にいえば尋常小学校卒の学歴しかなかった。戦死の時の階級は兵長であり、兵として最高の階級でしかなかった。つまり、3度も出征して最後は命まで奪われながら、生涯1兵卒だったのである。

特攻や学徒の多くが独身であったのに対して、かれらは一家の重要な働き手であり、妻や子供たちと生木を裂かれるようにして兵隊に「引っ張られて」きた人々であった。すでに青年の域から抜け出たかれらに殉教者の熱狂はない。死ねば残されたものが悲しいだけでなく、実際に路頭に迷ってしまうかれらは、「死ねない」「なんとしても生きて還らなければならない」人々であった。そんな彼らが死ななければならなかった。どんなにか心残りだったろうと思うと、たまらなくなる。

沢村もまた妻子を持ち、素封家であった妻の実家に頼らず、腕一本で(投げられなくなった後でさえやはり腕一本で)一家を支えていた働き手であった。

特攻や学徒が多くの言葉で自らの死の意味を後世に問うことができたのに比べて、かれらは「声なき声」の人々であり、自らの心情を多くの人に訴えかける言葉も手段も持たない人々であった。わずかに岩波新書『戦没農民の手紙』が、かれらのうちごく一部の人々の気持ちを伝えているだけである。

沢村は実家に多くの手紙を書き、新聞にも戦記が掲載されたりしているが、実際に戦争についてどう思っていたかについては、自らの言葉を残していない。ただ、坪内道則に向かって「二度と(戦争には)行かん」と叫んだことがあるくらいである。

かれらは戦争の初期には歩兵として中国大陸に送られ、対ゲリラ戦に従事した。

今、イラクに侵攻した米英軍が一般住民とゲリラを区別して攻撃しようとしているが、こんなことは対ゲリラ戦の性質上無理なのである。性質の悪いゲリラは住民を楯にする。支持されている場合は住民に紛れ込む。侵攻した軍に対して住民が恨みを抱いている場合は住民自身が容易にゲリラに変身する。実際の戦闘では最初は楯にされていた住民でも、侵攻してきた軍隊から殺傷されれば、容易に第二第三の存在に立場を変える。(まして日本軍は補給の貧弱な軍隊で、食糧等は現地調達が原則であった。最初は対価を払っていても、それが貴重になり、出ししぶりが始まった場合には、武器を持てるものと持たざる者との関係がいつまでも対等な交換関係にとどまっていただろうか。こうしたことも住民に恨みを抱かせる原因になっただろう。)そうなると、侵攻軍の兵士は疑心暗鬼になる。周囲は皆敵である。女・子供・老人でもゲリラの協力者かもしれない(事実そうだったろう)。いつ寝首をかかれるかもしれない。動くものはみな撃つようになる。それどころか動かなくても人間であるだけで「敵だ」と認識するようになる人もいる。暴力を背景とした物品の略奪が日常化すると、現地の女性も戦利品のように思えてくる。もう「鬼」である。よき夫、よき父であった人々が、1年も経たないうちに「鬼」になる。事実日本兵は中国では「東洋鬼(日本の鬼)」と呼ばれていた。これは本当はかれらの責任ではなく、こんな過酷な立場に国民を置いてしまうその国家が悪いのだ。

沢村が「鬼」になっていたことを想像すると辛い。だが、やはり「鬼」になった瞬間もあっただろう。一回目の出征から帰って来た沢村は「近寄りがたい」雰囲気だったという。

かれらは戦争の後期には歩兵として南方で圧倒的な米軍と戦った。末期にはソ連軍に「屠殺(実際に日ソ戦を戦った筆者の父の表現)」された。

米軍やソ連軍の小山のような戦車に、比べればブリキのような日本軍の戦車は、前面と後面の装甲を同時に貫通されて滅び、歩兵は、頼るものとてなく、雨あられと降り続く爆弾・砲弾・ロケット弾にある者は肉片にされ、ある者は逃げ惑った末、食べられるものは蠢く虫、最悪の場合は人肉まで食べた挙句に、戦傷や飢えや熱病のために骨と皮ばかりになって亡くなった人も多い。輸送機や輸送船で運ばれている間に敵と戦う暇もなくあっというまに命を落とす人も大勢いた。

沢村もまた、三度目の出征でフィリピンに送られる途中、米軍の潜水艦の攻撃で輸送船が撃沈され、台湾沖に沈んだといわれている。

かれらは死んでからも汚名を着せられなければならなかった。いわく、「戦犯」「侵略者」「犬死」「無駄死に」。特攻や学徒兵が年を経るごとに美化されるのに対して、かれらは忘れ去られた。

私はあるサイトである若者が沢村のことをこう表現したのに衝撃を受けたことがある。「こいつ、手榴弾でたくさん人を殺したヒトゴロシだろ。」

沢村はその飛びぬけた野球の素質と能力以外は、「神風」でも「わだつみ」でもなく、ごく平均的な日本人であった。ましてや参謀などではない。我々と同じ平凡な日本国民である。

沢村の生涯をたどるとき、筆者は将来の日本が積極的に戦争に関わったときの自分の運命を重ね合わせるのだ。我々には戦争に積極的に賛成することも反対することもできないのではないか。現在の米イラク戦争のように実際に関わらない戦争には一億総参謀だろうが。

すでに自衛隊は関わっているのだが。筆者は自衛隊の海外派兵が戦後初めて法的に保証されるPKO法が論議されていたとき、その賛成・反対の論議でなく、日本国民の関心のなさに戦慄を覚えたことがある。自分や自分の大事な人間が行かなければどうでもいいのか。確信犯と貧困層が戦場に行って「鬼」となり、後の国民は実感がないままに反戦や好戦の言辞を弄するところは、戦況が深刻化する前の戦前の裕福な階級の日本人・平和憲法下の戦後の日本人と、徴兵制でなくなってからの米国人はそっくりである。

だが、反戦を唱えるにしろ戦争をやむをえないと考えるのにせよ、自分の地位と生命が脅かされるようになったとき、筆者も含めた日本人のどれだけが自分の意見を積極的に表明できるだろうか。そして、決して戦争が好きでもないのに状況に巻き込まれる中で「鬼」になって誇りや名誉を失った挙句、自らの才能や将来を生命とともに失い、愛する者を悲しませるだけでなく路頭に迷わせるという道を歩まないと誰がいえようか。

われわれは「神風」でも「わだつみ」でもない。「サワムラ」なのだ。そのことをもう一度野球を愛する人々に考えていただきたい。

 

2015.7.18追記

 米イラク戦争の「戦後処理」がいまだに終わらず(実際には戦争が継続し)、この極めて悲観的な文章が12年経ってますます現実味を帯びていることに戦慄する。なお、冒頭と中ほどの部分に2015年の現在では排外主義者に本文の趣旨と関係のない攻撃の口実を与えるような表現があったので一部改めている。こんな心配をしなければならなくなったのも本当に情けない。

2022.3.12追記

 世間は突然登場した「俄か反戦主義者」に満ちている。2003年にはまだ物心ついていなかった人は当然知らないだろうから仕方がないが、「反戦主義者」たちはイラクでどれだけの一般市民が大国のまったく独りよがりの侵攻で亡くなったか知っているのだろうか。おそらく知らないだろう。開戦直後を除けば何の興味もなかっただろうから。

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