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ウォーム・アップ:剛球列伝戦前編 2007.9.7更新

‐歴史の波に消えた投手たち‐

 

沢村栄治以前に知ってほしい投手たちがいる

 この記念館に足を踏み入れられた方は、伝説の投手沢村栄治に興味のある方だと思う。この記念館には沢村に関する企画が満載なので、その興味は十分満たして差し上げられると思う。だが、その前に少しだけ、沢村が生きていた時代に、沢村と同等、あるいはそれ以上に評価されていた投手がいることを知っていただきたい。沢村の話に入る前に少しだけお付き合いを。

プロ野球の技術が究極なのか

 2001年現在、日本プロ野球機構所属チームの選手の技術が日本国内においては最高であることを疑う人はいないであろう。また、その日本プロ野球とて、米国大リーグに比べれば、随分レベルアップしたとはいえ、一日の長を譲らざるを得ないことは誰もが認めるであろう。

 だが、沢村栄治が三度のノーヒットノーランを記録し、景浦将が彼のドロップを州崎球場の「太平洋」場外へ叩き込んだころ、職業野球は日本最高の野球集団だったのだろうか。

「商売人」と蔑まれていたプロ野球

かつてプロ野球は、「野球を金儲けの道具にする商売人」と蔑まれていた。中学、大学の一流プレーヤーでも、何らかの事情‐大リーグと対戦してみたい(野球統制令により学生野球の大リーグとの対戦が不可能となった最初期に身を投じた人にはこうした動機も多かったろう)、金、家庭や地域、人脈のしがらみ、本人が「変人」‐がないかぎりそこで積極的にプレーしたい場所ではなかったようである。

実は六大学が「プロ」

また、「神聖なるアマチュア」であるはずの六大学野球など、実際には後援会などから選手の生活が保障されているセミプロであり、早稲田の三原脩(元ジャイアンツ二塁手、元ジャイアンツ‐ライオンズ‐ホエールズ‐バファローズ‐アトムズ監督、元ファイターズ球団社長)、水原茂(元ジャイアンツ三塁手、元ジャイアンツ‐フライヤーズ‐ドラゴンズ監督)などは学生結婚できるくらいの生活基盤が保障されていたのである。画像は慶応大時代の水原茂。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。

 

「六大学に追いつき追い越せ」時代は長かった

こうした状況では、アマチュアのほうがプロよりも技術が上ということも当然あり得る。そもそもジャイアンツの初代監督三宅大輔の更迭理由は「プロでありながらアマに負けた」というものであり、その後釜にはジャイアンツを破った、アマチュアである東鉄監督の藤本定義が迎えられている。アマチュアからプロに監督を迎えるという例は、それなりにプロ野球の基礎が固まった戦後になっても意外に多く、オリオンズの湯浅禎夫(明治大学)、スワローズの砂押邦伸(立教大学)、ホエールズの森茂夫(早稲田大学)、タイガースの岸一郎(早稲田大学)、ドラゴンズの天知俊一(明治大)などがプロ野球選手の経験もなくいきなりプロ野球の監督を務めている。湯浅はセパ分裂最初の年(1950年)の日本シリーズで、天知はライオンズ最初のパリーグ制覇の年(1954年)の日本シリーズで、それぞれ日本一監督になっている。

 

練習なしにプロで投げさせられた六大学のエース

藤本英雄(元ジャイアンツ‐ドラゴンズ‐ジャイアンツ)といえば日本最初の完全試合投手、「スライダーの元祖」として有名だが、彼が明治大学のエースとしてプロ入りしたとき、当時のジャイアンツの監督藤本定義(元ジャイアンツ‐パシフィック‐ユニオンズ‐スターズ‐ブレーブス‐タイガース)は、主力選手を兵役にとられレベルの落ちたプロ野球が東京六大学野球と比較されるのを気にして、何の練習もさせずに藤本投手を初登板させたという。それでも藤本の初年度の成績は、秋のシーズンだけで10勝無敗、防御率0.81、翌年には341119完封、ノーヒットノーランも記録し、中でも防御率0.73は未だに破る者のない、おそらく日本プロ野球が続く限り決して破られることのない輝かしい記録である。それでも藤本英雄を東京六大学野球史上最高の投手として推す声は聞けない。このあたりに当時のアマチュア野球とプロ野球の力関係が現れているのではないだろうか。画像は下関商業時代の藤本英雄。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。

 

「沢村の前に沢村なし」なのか

 かつて、多くのプロ野球OBたちが、「沢村の前に沢村なく、沢村の後に沢村なし」と述べた。彼らは戦後も現役として、あるいはコーチ、監督としてプロ野球を見続けたわけだから、自分の時代に対する美化作用はあるにしても、「沢村の後に沢村なし」という言葉を簡単に葬り去ることはできないだろう。だが、「沢村の前に沢村なく」という言葉はどういう根拠に基づいて言っているのだろうか。素朴な進歩史観に基づいて自分たちの世代より前の世代の能力を認めないことにおいては、現代の若者も昭和初期に若者だった人もたいした違いはない。おそらくその当時も、若い選手は、今より長幼の序のうるさい時代だから表向きは先輩たちの顔をたてながらも、「××投手がすごいといっても、レベルの低い昔の野球だから」と内心は、あるいは同世代同士ではささやいていたに違いない。

 

伊良部の最速記録だってもう「昔の野球」だ

だが、野球のボールを投げる、という単純なスポーツに関して、人間はそれほどに進歩してきたのだろうか。特にスピードに関しては、意外に進歩していないのではないか。第一現代野球でも、伊良部秀樹(マリーンズ‐ヤンキース‐ダイヤモンドバックス)が158kmの球速を記録したのはもう10年近く前のことであり、その後155kmを超える球速を出すピッチャーの噂さえほとんど聞かない。野球が日進月歩するものなら、とっくに170kmの豪速球を投げるピッチャーが出てきてもいいはずである。スピードガンが客寄せのために速く出るように設定してあるために伊良部の球速が出たのなら、大リーグへの選手流出と観客動員減少に悩む日本プロ野球はなぜもっと速く表示されるようにスピードガンを設定しないのだろうか。(※20027月、セパの若き速球王、ブルーウェーブ山口和男とスワローズ五十嵐亮太がオールスターで155km対決を繰り広げたのはうれしい限りだった)

 

昔は直球だけで打者を牛耳れた?

 変化球についても、現在の投手は多彩な変化球を操り、昔は直球とカーブだけだったとよくいわれるが、これこそ「昔は直球だけで打者を牛耳れる投手がいた」というのと同種類の「神話」だと思う。あなたが120km以上のスピードの球を投げられるならばぜひ試してほしいのだが、キャッチャーに完全防備をさせ、こっそり指先につばをべっとりつけた後、ワンバウンドさせるつもりで直球を全力投球してみてほしい。たぶんボールは球速はそのままでいきなり落ちたりスライドしたりして、キャッチャーはミットにかすることも出来ないはずだ(危険なので軟球でやってください)。自分でいろいろ試してみた経験では、この変化球こそ「多彩な変化球」で、直球なみのスピードの球が、鋭く、不規則に変化する。これはスピットボールといって、1920年代までの大リーグではだれでも投げていた変化球である。この変化球が禁止されて後初めてベーブルースによるホームラン時代が始まったことは、吉目木晴彦氏『魔球の伝説』に詳しい。

 

杉下茂は本当にフォークの元祖か?

 また、現在もてはやされている変化球のほとんどが、すでに1920年代には投げられていたことが多くの研究で確かめられている。たとえばフォークボールは大リーグのペノック投手がすでに1920年代に投げていた(名前が残っているだけでそれ以前にも誰かが投げていただろう)。しかし、当時はグラブが小さく、また一旦グラブと利き腕を離してワインドアップしていたため、投げる前に握りが見えてしまい、大リーグでは誰も投げる者がいなくなっていた。それを天知俊一監督のアドバイスで杉下茂(元ドラゴンズ投手)が1950年代に再び投げるようになり、今ではプロ野球で投げないピッチャーの方が珍しい。杉下は「フォークボールの元祖」といわれるが、これは杉下のフォークが無回転で揺れながら落ちるナックルのような魔球だったから言われることであり、筆者はそれ以前に(現代の投手が投げているような)もっと威力のないフォークを投げる投手はいたと思っている。画像は杉下茂。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。

 

縦スラの元祖近藤

たとえば戦前にライオンで活躍した近藤久投手は、子どものころ凧揚げをしていて凧糸で指の筋を切ってしまって開かない指にボールを挟んで投げるため、それがくせ球となっていたらしいが、彼こそ日本プロ野球におけるフォークあるいは「縦スラ」の元祖ではなかろうか。単に彼の速球に威力がなく、変化球との対比で杉下(球速はおそらく130km後半から140km前半だろうから無回転フォークはものすごい威力を発揮しただろう)ほどの成績が残せなかったから大騒ぎされないだけの話だ。画像は近藤久。

 

沢村の「三段ドロップ」は本当にカーブか?

ほかの変化球に関しても、昔の投手の「カーブ」「シュート」などと平凡な変化球の名で呼ばれているものの中には、実はその投手が独自の工夫をこらした「魔球」が数多く含まれているのではないかと思っている。沢村の「ドロップ」だって、「三段ドロップ」と呼ばれたり、故三原脩氏が「速球とドロップの球速が変わらなかった」などと言ったりしたのを考えると、実は縦スラやフォークだったのではないか、あるいは別の沢村独自の握りをした変化球だったのではないかとさえ考えてしまう。実際、現在スライダーと呼ばれている球は、「速いカーブ」と呼ばれて多くの投手が投げていたという。藤本英雄や稲尾和久が投げていたスライダーは現在では「カット・ボール」と言われている球に近いらしい。当時「日本一の投手」とメジャーリーガーから目されていた伊達正男(市岡中-早稲田大)は、カーブ、シュートのほかにスライダー、パームボール、シンカーなどを投げていたという(伊達正男『私の昭和野球史』)。沢村の「ドロップ」も、「フォーク」「縦スラ」という概念そのものがない時代だから、実体としてそれと同じ変化をする球であっても、「ドロップ」と呼ぶしかないわけである。

 

史上最高の投手は沢村以後のプロ野球にいるとは限らない

このように考えれば、沢村以後のプロ野球からのみ「史上最高の投手」を探すのは、数々の伝説の宝庫に足を踏み入れず足元に100円玉が落ちていないか探すような愚かな行為だという気がしてくる。実際に「史上最高の投手」がその中から発掘されるかどうかは別にしても、「沢村以前」または「アマチュア野球」にも史上最高投手探索の足を伸ばしてみるのもあながち無駄ではあるまい。それでは、沢村以前、または必ずしもプロのほうが実力が上でなかった時代の、プロ入りしなかったアマチュアの名投手をざっと振り返ってみたい。ただし、キャッチャーのミットがあまりにもチャチな時代の名投手には「伝説の彼方」に退場願った。捕手が取れなくてはせっかくの豪速球も魔球も試合では投げられないからだ。

 

大リーグ相手に初の勝ち投手!小野三千麿

 沢村の名声を高めたのはなんといっても大リーグ選抜相手の9奪三振、0-1の試合だろうが、実は沢村よりも12年前、れっきとした大リーガーの選抜チームを相手に3失点の快投で勝利したのが慶応大学の小野三千麿である。相手チームの選手は筆者にはなじみのない選手ばかりだが、1922年といえばまだ大正時代。甲子園大会もまだ始まってさして経っていないことを考えれば一大壮挙である。もちろんその前後の試合では完膚なきまでに打ち込まれているが、それは沢村とて同じこと。一試合だけの出来を考えれば沢村の活躍に匹敵すると思う。ただし、三振が投手を除くと1というのは寂しい限りで、大リーグ選抜が小野の速球を打ちあぐんでの結果ではないようだ。画像は小野三千麿。

 

8連続奪三振!「日本一の左投手」小川正太郎

 「日本一の左投手」といえば戦後は誰でも金田正一(元スワローズ‐ジャイアンツ)を思い浮かべるが、戦前のアマチュア野球ではこの称号は小川正太郎(和歌山中学‐早稲田大学)のもの。和歌山中学時代に第10回選手権で記録した8連続奪三振はいまだにアンタッチャブルな大会記録。4試合で実に54奪三振。選抜では優勝投手にもなっている。流麗なフォームは当時の投手の手本となっていたらしく、沢村の「野球帳」にも連続写真がスクラップされている(画像1:もちろん一枚一枚ポーズを取ったヤラセの写真)。ただ、早稲田大学進学後は胸部疾患のため今ひとつ振るわなかったらしく、それがキャッチャーである伊達正男の早慶戦三連投につながっていく。また、日米野球に出場していない点も、小川の実力を測る点で不利に働く。画像は小川正太郎の投球フォーム。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。

 

延長25回勝利!甲子園3連覇!吉田正男

 所属するチームの強さゆえに投手としての実力が今ひとつ評価されなかったことが桑田真澄(PL学園高校‐現ジャイアンツ)を思わせるのが吉田正男(中京商業‐明治大学‐藤倉電線)だ。桑田はプロに入って投手としての実力を証明して見せたが、この人はアマ野球に終始しため、現代の野球ファンでこの人の名を「速球投手」「剛球投手」「名投手」として挙げる者はいない。残っている写真がつま先の開いた体の突っ立ったフォロースルーの写真だからというのも科学的な根拠を求める現代のファンの心に響いてこない。しかし、特集1でも述べたが、この時代の写真で全力投球というのはまずない。この間(2001.6)の上原浩治(ジャイアンツ)がウォーミングアップしている姿を画像に取り込もうとして静止してみたら吉田正男の残っている写真にそっくりなのでびっくりした。吉田の場合コントロールとアウトドロップが喧伝され、速球については何もいわれないが、14三振を奪っての準完全試合も達成しているから、ただの軟投派では決してない。もう少し弱いチーム(たとえば沢村のいた京都商業)で投げていたら、プロ入りしていたら、と惜しまれる投手の一人である。画像は吉田正男と捕手の野口明。吉田正男の動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。

 

早慶戦3連投。「スモークボール」レフティ・グローブと渡り合った!伊達正男

 もともとは早稲田大学のキャッチャーだが、小川正太郎が早大進学病気で戦線離脱したため、急遽マウンドに立ち、早慶戦三日連投の壮挙を成し遂げた投手が前述の伊達正男(早稲田大学)である。これだけだと戦後に安藤元博(早大‐フライヤーズ)の5試合登板などがあり、投手酷使が当然の戦前では特に目立った存在ではないのだが、日本野球の実力のバロメーターともいえる日米野球で意外なほどに好投しているのである。詳しい資料が手元にないため防御率などの細かいことは分からないが、「スモークボール」レフティ・グローブ(画像)や鉄人ルー・ゲーリッグを中心とした1931年来日の大リーグ選抜チーム相手の第2戦に61失点と好投、その間に早大が5点を入れ、大リーグチームの心胆を寒からしめているし、第6戦にも宮武三郎(高松商業‐慶応大学‐東京倶楽部‐ブレーブス。長嶋茂雄が破るまでの六大学野球通産本塁打記録の持ち主)をリリーフして好投している。第12戦には乱打されているものの、これは小野も沢村もたどった道である。ゲーリッグと食事したときにヤンキースに誘われたと本人が証言している(『私の昭和野球史』)。実際1934年のベーブルース一行相手の日米戦では沢村より数段期待されていたようで、パンフレットでは沢村が武田可一、倉信雄、伊原徳栄などの、現在ではよほどのマニアでない限り名前を知らない選手たちと十羽一からげに扱われているのに対して、伊達は堂々1ページを占めて紹介されているのである。また、1934年の日米野球においても、先にも述べたように詳しい資料がないので防御率などはわからないが、第25-1で負け投手、第116-5で負け投手と、伊達の責任投手となった試合はちゃんと試合として成立しているのである。もし沢村栄治の静岡草薙球場での一世一代の好投がなかったら、また、彼がプロ入りしていたら、伊達は戦前最高の投手として人々の記憶に残っていったかも知れない。なお遠投距離は120mであったと本人が証言している。伊達の投球フォームについては沢村栄治への誤解・曲解・崇拝に反論する参照。グローブ投手の動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。

画像:グローブの投球フォーム

 

4試合64奪三振!「世紀の剛球投手」楠本保

 もう追いつく者さえいないだろうと思っていた記録のタイ記録が昨年(2000年)夏の甲子園で達成されたのには驚いた。甲子園での1試合19奪三振。この記録の持ち主は過去に3人(森田勇‐東山中、藤村富美男‐呉港中、平古場昭二‐浪華商)いるが、「世紀の剛球投手」といわれた楠本保(明石中学‐慶応大学)の夏の最高は第16回大会対松山商業戦の17。しかし、この大会では4試合で64奪三振。1試合平均16個は今も史上最高記録として残る。優勝の栄光をつかむことは遂にできなかったが、第8回選抜で準優勝、平安中相手に18奪三振。第9回選抜では大会初の全員奪三振を2度にわたって記録。ノーヒットノーランも当然やっている(第18回選手権対北海中)。残っている映像は筆者の見る限り断片的な写真のみだが、堂々たるワインドアップは大投手の名にふさわしい。ボールの握りが丸見えなのはご愛嬌である。以前から思っていたことだが風貌が野茂英雄(バファローズ‐ドジャース‐メッツ‐ブリュワーズ‐レッドソックス)そっくりである。高い背丈、厚い胸板。「つい立みたいな身体をクルリと半回転する大きなモーション」という同時代の選手の証言(『不滅の高校野球』)もますます野茂を思わせる。ただ唯一の弱みは、「脚気(かっけ=全身に神経炎を起こす栄養障害)」であったことで、有名な中京商業吉田との延長25回戦では左腕の中田(画像:楠本と同じく慶大進学)にマウンドを譲っている。中田のピッチングフォームは映画として残っている。楠本とは対照的に軟投派だったらしいが、当時としては珍しい試合での映像、大事な一戦で楠本より信頼された投手の映像を見てもらうのも有意義と思う。楠本保・中田武雄の動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。

 

5試合連続完封!準決勝、決勝ノーヒットノーラン!「海草の嶋か、嶋の海草か」嶋清一

 これももう二度と同じことはできまいと思っていた偉業、甲子園夏の大会決勝戦でのノーヒットノーラン。横浜高校の松坂大輔(現ライオンズ)が一昨年(1999年)成し遂げたが、これまで唯一この記録を持っていたのが嶋清一(海草中学‐明治大学)である。「海草の嶋か、嶋の海草か」というくらいのワンマンチーム。何度も優勝を逃しながら、中学最後の年に5試合連続完封、準決勝、決勝ノーヒットノーランで勝ち取った選手権。身長は171cmと当時の投手としても小柄だが、陸上の練習もしないで100m11秒フラット、ベリーロールも背面跳びもない時代に走り高跳び165cmのバネは、だれも否定できない客観的な豪速球の必要条件として残る。いくら投手優位の時代とはいっても、燦たる記録、強靭な肉体。遠投記録が残っていたら現代野球の信奉者を困らせる存在になっていただろう。当時の映画フィルムに残る嶋の投球フォーム(画像:第25回大会決勝戦最終打席)は、地区予選からの連投に次ぐ連投の後の投球だけにずいぶん肘が下がりがちだが、面白いのはいわゆる「球離れの遅いフォーム」、金田正一氏言うところの「前で投げる」フォームであることだ。画像の2コマ目に注目してほしい。画像が古い上に機械の解像度が低くて見えにくいと思うが、見事な胸の張りと腕のしなりである。豪速球にプラスしたリリースポイントの遅い現代的なフォーム。明治大学に入学したときには既に全盛期を過ぎていたといわれる。左腕から繰り出される全盛期の豪速球を、左打者であるルースやゲーリッグ相手に投げさせたかったピッチャーである。画像は嶋清一の投球フォーム。動画を見たい方は「動画日本野球殿堂」にアップしてあります。

 

プロ入りしなかった(プロがなかった)好投手たち

 ほかにも第7回選抜で1試合19奪三振、4試合で54奪三振の岸本正治(第一神港商業)。渡辺大陸(明治大学)は前述の小野三千麿と投げ合い、小野の14より多い16三振を奪い、両チーム計30三振、また極東大会予選でセールフレーザーから延長1327奪三振。谷口五郎(早稲田大学)はまだ東京四大学リーグだった時代に法政から延長16回で25奪三振を記録している。谷口は1922年の大リーグ選抜チームとの2回戦でも4失点の好投を見せている。大リーガー相手だと二桁失点が当たり前の時代だからこの好投は光る。前述の湯浅禎夫が明治大学時代に作ったシーズン109奪三振と二試合連続無安打無得点試合はいまだにアンタッチャブルな東京六大学記録であり、「鉄腕」と称えられた。画像は渡辺大陸。

 

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